Jeux inconnus

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「ハーデス、君は“セックス”ってしたことあるかい?」
 藪から棒に一体なんだ、とハーデスは借りてきた弁論記録から目を離して、勝手にひざを枕にしている彼につめたい目線を下ろしたが、彼は興味が自分に移ったことに喜ぶかのようにぱっと表情を明るくした。
 彼はハーデスの真剣な表情を見るのが好きで、飽きもせずに、いつもじっとこうして眺めているのだった。最初にそうされたときは、その居心地の悪さに、私室であるというのに仮面を身につけたままにしたものだが、彼が露骨に残念そうな顔をするものだから、結局のところハーデスは彼の前に素顔をさらし続ける羽目になっている。
「……お前には関係ないだろう」
「したことがあるのだったら、どういう感じか知りたかったんだ。ほら、僕はしたことがないから」
 ほう、したことがないのか。ハーデスは彼の言葉に興味をそそられた。意外とも言えるしそうでもないとも言える。
「この間、官能をテーマにした物語を読んだのだけれど、おなじ人の欲求のなかでも、睡眠や食欲などの生理的欲求はおろか、自己実現の欲求までをも凌駕する快楽だという記述があってね。けれど、僕にはとてもそうは思えないんだ。あらたな知見を得たり、世界の法則を見つけたり、優れたイデアを生み出すことよりも、充足感を得られることが本当にあるのだろうか?」
「単純な生理的欲求が、それに優るとは私も思わんが、愛、という概念があるだろう。それを深め、高め合う行為だとするならば、また違う見解になるんじゃないか」
「なるほど。そう定義すると、セックスとは肉体と精神の両方に作用する行為になるのか。それはますます体験してみたくなるなあ」
「……まあ、そういうことは、お前のほうが詳しいんじゃないのか、ヒュトロダエウス」
「ええ、そこでワタシに振るのかい?」
 ハーデスのとなり——彼の横たわった足を乗せたヒュトロダエウスは、二人の会話をにやにやとしながら聞いていた。彼らはいつもハーデスの私室に入りびたり、そして何かとこうしてくっついてくるので、そこそこ広い空間のはずが、ソファもベッドもいつもぎゅうぎゅう詰めだ(そのことに苦言を呈し続けていたハーデス自身も、今となってはもはや諦めている)。
「ああ……たしかに……君はとても詳しそうだ」
「自分の経験について話した覚えはないんだけれどなあ」
「だって……ときどき聞くよ、君が噂されているところ。“局長フレグランス”も人気だし……」
「そのイデアは認可を出してないはずだけれどなあ」
「十四人委員会の誰よりも話題になってるんじゃないか」
「ワタシは一介の市民に過ぎないんだけれどなあ」
 朗らかな微笑みをうかべるヒュトロダエウスの人柄は、創造物管理局が市民にとって身近でなじみのあるぶん有名だ。あまり表に出ることはないのだが、柔和な声音や、すらりと伸びた上背や、すれ違ったときの香りも、ひときわ存在感がある。そして、イデアの本質を見抜くと称される、仮面に秘されたまなざしに、じっと見つめられたりすれば、なにかぞくぞくとした感覚が背筋をかけたりする、なんともくせになるような男なのだ。たくさんの人に慕情を抱かれているのも無理はないと、そういう“経験”のない彼でさえ、納得するほどだった。
「それで、結局のところどうなんだい?」
 彼は知的好奇心にみちた表情で、上体を起こした。真剣に話を聞きたいという気持ちのあらわれだろう。ヒュトロダエウスは穏やかな笑みを浮かべたまま、すっと目を細めて言った。
「そんなに知りたいのかい?」
 彼の耳元に唇を寄せる。
「……セックスについて」
 耳にささやかれた吐息が、脳髄を一瞬にして犯し、ぞくっとした痺れが駆け抜けた。
「……は、……え……?」
「教えてあげようか」
 硬直する彼の耳朶をさわさわとくすぐりながら、ヒュトロダエウスは冗談かどうかも曖昧な声音で問いかけた。
「……おい、ここは私の部屋だぞ」
「フフ、わかっているよ。まさか本当に“する”わけないだろう?」
 おどけたように言うヒュトロダエウスの表情はこなれたもので、その人畜無害そうな微笑みでいったいどれだけ“経験”とやらを積んできたのか……ハーデスは胡乱げな視線を向けた。
「じゃ、あ……なにをするんだい」
「あくまで“真似事”だよ。素肌は合わせない。シーツを汚すようなこともしない。もしかすると、ローブはすこし汚れるかもしれないけれど……ね」
「それで、本当に、その……セックス、についてわかるのかい?」
「少なくとも、物語を読むよりは理解できるんじゃないかな」
 彼はごくっと喉をならした。未知なる世界へ惹かれているのか、それともすでに快楽の片鱗の虜となってしまったのか。なんとなく、ハーデスに赦しを乞うような、伺いの視線を向ける。くだらないと言いたげな表情の向こう側に、ぎらついた熱のようなものを感じて、彼は目をそらした。
「おいで」
 ベッドにねそべったヒュトロダエウスに呼ばれて、彼はおそるおそるシーツの上に乗りあがった。
「キミもだよ、ハーデス」
「ハァ? なぜ私まで……」
「だって“経験”したこと無いだろう?」
 図星だった。とっさに違うと否定してみせたかったが、あまりにも当然のように言い放たれたので、なにも言葉が出てこなかった。
 その“眼”は経験の有無まで視えるのか? いやそんなはずはない。ただなぜかヒュトロダエウスにはわかるだけだ。無闇に否定しても墓穴を掘ることになりかねないと判断して、ハーデスは心中をため息に込め、おとなしくベッドの縁に腰かけた。
「よ、よろしくお願いします……、せ、先生」
 彼は神妙な面持ちで、うながされるままヒュトロダエウスの上にまたがった。
「フフ、その呼び方はなかなか新鮮だね」
「っあ」
 勢いよく上体を起こしたヒュトロダエウスにより、彼はくるんと体勢がひっくり返って、気づけば仰向けの状態になっていた。わけもわからず見上げると、垂れ下がる髪をかきあげる様を目の当たりにする。あやしい空気にのまれそうになり、咄嗟に顔をそむけると、そこにハーデスの背中を見つけて、彼はすがるように布地をにぎりしめた。
「そんなに不安なら、止めておいたらどうだ」
 からだの向きを傾けたハーデスに、鼻で笑うように言い捨てられて、彼はむっとしたように顔をしかめた。けれどその手はローブをつかんだままだった。
「ワタシを見るんだ」
「…………っぁ」
 ヒュトロダエウスが彼とほとんど額をあわせるようにして視覚を支配した。いつものおだやかなまなざしであるはずなのに、まるで射抜かれたように身動きがとれなくなっていた。清涼でいてどこかほのかに甘さのある香りが鼻腔を通り抜ける。頭がぼうっとしてなにも考えられない。
「キミたちの言うとおり、セックスの快楽は、肉欲だけじゃない。そんなものは自慰と同じだからね。キミもしているだろう?」
 布地越しに太腿の内側をつう、と指先でなぞられて、彼はひっと声をあげた。くすぐったい、だけのはずなのだが、行き場のない感覚があらぬところへ集まっていくようだった。
「それとも……あんまりしないのかな?」
 すでにゆるやかに硬度を増しつつあるそれを揶揄する。
「はぁ……はぁ……何か、おかしい、よ……こんなの、ただの真似事じゃ……」
「へえ。なにがおかしいんだい」
 ヒュトロダエウスは悪魔的な微笑をうかべながら、彼の臀部に腰を押しつけた。
「ほら、なにも“当たらない”だろう? だからこれは遊びにすぎないよ」
 ぐりぐりと股間を擦りつけられて、彼はたまらず赤面した。たしかにそこに“硬いもの”は存在しなかったが、そんなに密着されては感触がつたわるというものだ。膨らみと弾力が。しかも、平常時だというのに明らかに、自分のそれよりずっと——。
 これが遊びではなく“本気”になったとしたら、いったいどうなってしまうのだろう。脳裏を勝手にイメージが描き出されて、ますます変な気分になっていく。ハーデスにすがりつく指に力が入った。かれにどんな目でみられているのか、確認するのが心底おそろしかった。
「キミは自分でするとき、なにを想像しているのかな」
 脚の付け根をくすぐられている。その中心がひくんひくんと痙攣しているのは、もはや隠しようがなかった。
「……と、くに……なにも……ただ、擦って……」
「それだけ? 誰かを思い浮かべたりしないのかい」
 ヒュトロダエウスは彼の耳もとへ唇をかぎりなく近づけた。吐息がぞわぞわとして全身がこわばり、彼の脚がのしかかった身体をぎゅうっとはさんだ。
「たとえば……ハーデスとか」
「——……っ!」
 じわりとローブにしみが広がった。
「おっと、やっぱりローブが汚れてしまったね」
 ヒュトロダエウスはパッと身を離した。彼はすぐに膝をたてて粗相を隠したが、頬の紅潮と荒い息遣いから、おさまらない興奮に身を焦がしていることは明らかだった。
「どうだい、セックスについて少しは何かわかったかな」
 わかるもなにも、むしろ余計にわからなくなったと彼は思った。セックスとは、いったい何なのだ。知識とはあるところから、点と点が線でつながるように、あるいは世界がひろがるように理解できるものだが、ある種の知識は、深淵をのぞきこんだように、手をのばしても底の深さが知れるばかりで、途方に暮れてしまうことがある。これは、“性愛”とはなにかというエニグマだ。
「もっと、……知りたい」
 彼はうっとりと囁いた。ヒュトロダエウスは目を丸くして「キミの知識欲には恐れ入るよ」と苦笑いした。
「ハーデス、今度はキミの番だよ」
「いらん。必要ない」
 親友の即答にヒュトロダエウスは一瞬微笑を引っ込めたあと、こみあげる笑いをおさえるように肩を震わせた。
「……フフ、フフフフ……もしかして、彼と同じことをされると思ったのかい?」
「なんでもいい。お前とそういうことをするつもりはない」
「ワタシとじゃないよ、彼と、だ」
 先に反応したのは快感の余韻にふるえていた彼だった。
「そ、れは、だめだっ」
「どうしてだい」
 ヒュトロダエウスが言外に「それがキミの望みじゃないか」と核心をついていた。そのとおりだ、だからこそなのだ。これは“真似事”に他ならないのに、そうではなくなってしまう。
「ワタシは良くて、ハーデスはだめなのかい?」
「そういう意味じゃ……ちがうんだ、ハーデス……僕は……」
「別にいいだろう。そのまま、そいつにしてもらえ」
 平坦な声色からは、感情が読めない。彼は勇気をふりしぼってハーデスの顔を見上げようとしたが、最初からそうだったのか、それとも、そむけてしまったのか、どちらにせよ表情を窺うことはできなかった。
「……僕、は……」

ハーデスの温もりをもとめる
ヒュトロダエウスに身をゆだねる


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