夜と花と太陽

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 ひさしぶりにアーモロートへ帰還したアゼムは、意気揚々と部屋のとびらを開けた。ひとり世帯のための居住棟だったが、内部は空間拡張魔法でひらけている。
 というのもこの部屋はハーデスのものなのだが、親友のヒュトロダエウスや、たったいま勝手知ったる様子であがっていく彼がひんぱんに入りびたっており、実質的に三人の男が住まう、むさくるしい空間になっていたのだ。人口密度が快適生活区域を侵しているというなげきから、優れた魔道士の力と、既存イデアに関する叡智と、新たなる創造性の共同作業で、室内は文字どおりの魔改造を受けることになり、かくしてハーデスの部屋・改は完成した。
 しかし、アゼムを迎え入れたのは、どこかもの寂しげな冷たさと薄暗さだった。しぃんとした室内には人の気配はなかったし、ぶるっと身震いしてしまいそうな寒気がする。彼は、真夏の夜とはいえ冷やしすぎだと、室内をめぐる氷属性環境エーテルを、窓を開けて逃してやった。
 アゼムは窓の外をながめながら思考した。おそらくこの場所にはしばらく誰もおとずれていないのだろう。部屋を冷やしていた魔法の名残から、最後に家主が帰ってきた時期を逆算すると、アゼムは納得した。もうそんな時期か、と。
 そのとき、満点の夜空が急に暗くなった。雲に陰ったかのようだったが、自然的な異常ではなく魔法の『ブライガ』によるものであることはすぐにわかった。
 ひゅるるるる、と特有の音とともに、火属性の塊がのぼっていく。そして腹の奥底までひびくような、ドォンという爆裂音を立てて、真夏の夜空に火花が咲いた。
 高い塔の上から地上をみおろすと、市民たちが建物の中からわらわらと出てきて、花火の音がなるたびに歓声をあげていた。
「……今年こそは僕も打ち上げようと思ったのに」
 アゼムは拗ねたようなひとりごとをこぼした。とびっきり大きくて、飛び上がるほどの音が鳴り、太陽のように瞬間的にかがやくイデアを披露してみせたかった。まさか創らせないために、不在の時を狙って行ったのだろうか。いやいや最近はやたらと暴走する創造物は創らなくなったし、ときどき、本当に稀に、予期しない現象を起こしてしまうことはあるものの、それはイマジネーションをわかせるという意味で歓迎すべき事態だ。ラハブレアもそう言っていた。アゼムは誰に訴えるでもなくうなずいた。
 居住区はアーモロートの中でも高い階層にあるため、アカデミアのある地階から打ち上がる花火はより間近に感じられた。市民が各々に持ち込んだであろう花のイデアは美しかったが、隣に誰もいないことが残念だと思った。とはいえヒュトロダエウスはともかく、ハーデスは花火鑑賞どころではないだろう。あの『ブライガ』もかれによるものだということは、エーテルの質から感じ取れる。火を管理しているのはおそらくラハブレアで、緊急時のためにミトロンも待機しているはずだ。他の委員もそれぞれ担当があるに違いない。仕事をしていないのは僕だけか、とアゼムはなんだか申し訳なさと寂しさを覚えた。身体は街から離れても、心までは離れていないはずだというのに。
 夏の花の観賞を終えると、アゼムは耳に心地よい余韻を感じながら、広すぎるベッドに倒れこんだ。

「……キミの願掛けが叶ったようだよ、ハーデス」
 ぼそぼそとした話し声がどこからか聞こえて、アゼムはううんと寝返りをうった。ひさしぶりのやわらかな寝具に抱かれて離れられそうもない。となりに誰もいないことにも開き直って、大の字に横たわるのはそれはそれで気持ちが良かった。
「なんの話だ」
「はるか遠くの彼にまで光が届くように、魔法を込めていたじゃないか」
 話し声と足音はどんどんと近づいて、未だ目を開けないアゼムの前でぴたりと止まる。
 ぎしっとベッドが沈み、アゼムの腹に重みがかかる。胃が押し潰されそうになり「うぇ」と声が上がる。逃れようとすると背中にがっしりと腕がまわされて、鳩尾はあわれにも犠牲になった。
「ハァー……」
 くぐもった深いため息が、へそのあたりを温めた。アゼムはうっすらと目を開いた。
「んぅ……はーです……?」
 アゼムは半分寝ぼけながら、少しばかりごわついた髪を手でまさぐった。髪はぐしゃぐしゃになったが、離れることはなかった。アゼムは横向きに寝返りをうちなおして、ハーデスの頭を抱きしめた。
「ワタシもいるよ」
 今度はアゼムが背後から抱きしめられた。ふわっと漂う香りに「ひゅとろだえうす」と惚けた舌で返事をする。
「キミは太陽の匂いがするね」
 後頭部に鼻を埋められて、そういえば埃を落としていない、と恥ずかしさにアゼムは少し目が覚めた。
「あ、お、おかえり、ふたりとも……」
「それはワタシたちの台詞だよ」
 ヒュトロダエウスは、アゼムの頬にキスを落とした。
「くすぐったい」ざらっとした感触に身をよじる。「ああ、忘れていたよ」と間を置いてからの二度目の感触はつるりとしていた。
「ハーデスも?」「さあ、試してみればわかるんじゃないかい」アゼムはヒュトロダエウスと一緒にくすくすと笑いながら、すでに寝入りかけているハーデスの額に口付けた。かれは眉間の皺を深くして、アゼムの腹によりつよく顔面を押しつけた。
「おやおや、ワタシもいるのに珍しいなあ」
 親友の甘えっぷりに、ヒュトロダエウスは目覚めたときが楽しみだと、ニヤニヤが止まらなかった。
「寂しがらせてしまったかい?」アゼムはハーデスの頭を撫でながら微笑んだ。
「僕も……花火は綺麗だったけど、君たちと一緒にみたかった……」
「ワタシたちも見ていたよ。いつも——同じ空を、ね」
「そうだね、うん……」
「……おやすみ」
 まどろみに落ちかけたアゼムは「うん、おやすみ」と目を閉ざした。まぶたの裏には花火のきらめきが焼き付いていた。


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