在りし日の

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 その日は抜けるような青空で、太陽が真上にさんさんと輝いていた。真夏日ではあったものの、アーモロートはからっとした空気で、じりじりと焼けつくような日差しも木陰に入ってしまえば気にならない。公園の芝生にでも寝転がれば、ひんやりとしていて最高の寝心地だろう。
 岩肌からの照り返しや、やけどしそうな熱砂、喉に絡みつくような湿気も、もちろん旅の味わいではあったが、過酷な環境におもむくたびに、この街が恋しくなったものだ。もっとも“彼”に言わせれば、魔法でどうにかすればいいと言われるところだろうが、そんな所業は、まったくもって浪漫がない。自分の足で大地を踏みしめ、空気を吸い、時には自力で川を渡ってみせたりして、ヒヤリとした水流がくるぶしをさらおうとするのを楽しむのが、旅の醍醐味というものだ。そのような考え方をする者は、少数派ではあったが。
 アゼムは太陽光にまぶしげに目を細めながら、木陰の芝生に寝転がるふたりのもとへ訪れた。
「おや。久しぶりのご帰還だ」
 見知ったエーテルの気配を感じたのだろう、ヒュトロダエウスが寝転びたまま、白仮面をみにつけた顔をアゼムのほうへぐるりと向けた。
「……ただいま。君は相変わらず察しがいい。おどろかせようと思ったのに、急に振り向かれたせいで僕のほうが驚いた」
「フフ、大丈夫、キミが一番におどろかせたい相手は、まだ気付いていないからね」
 ヒュトロダエウスはゆっくりと上体を起こすと、口元に人差し指を当てた。
 かれの隣には赤仮面を身につけた男が、やすらかな寝息を立てていた。アゼムは眠っている彼を間にはさむようにして、そっと芝生に腰を下ろした。
「ハーデス……おっと、エメトセルクといったらひどいんだ。ワタシがせっかくおもしろいことを話しているのに、気づいたら寝ているんだからね」
「律儀なところがある彼が、会話の途中で眠るなんて、君に心を許してる証じゃないか」
「それだったらキミが彼に声をかけたときは、一言目には寝ているくらいなはずなのになあ」
 ヒュトロダエウスは、大真面目にそう思っていると言うように首を傾げてみせた。本気か冗談かわからない、友人の飄々とした態度に、アゼムは「まさか」と苦笑いした。
「それこそ、君ほどの親愛があれば、すばらしい報告を彼自身の口から聞けたに違いないよ」
「ああ……だから、言っておいたのに」
 言っておいたとは何のことだろうか、と考えるアゼムに、ヒュトロダエウスは微笑みで応えた。アゼムは、おしゃべり好きなかれが語らないことは、語らないほうがいいことだということを知っていたので、深くは気にしなかった。
 アゼムは、赤い仮面の持ち主をのぞきこんだ。はっきりとは見えないが、いつものように眉間にしわをよせて、しかめ面をしているように見えた。本当に眠っているのだろうか?
「こんなふるい童話があるのを知っているかい。百年の眠りについているお姫様が——」「知っているよ。王子様のキスで目覚めるんだろう」
 アゼムはヒュトロダエウスの言葉をさえぎった。ヒュトロダエウスはにやにやと笑いながら「どうだい、きっとすごく驚くと思うんだけれど」と言って、ちらりとハーデスを見下ろした。ふたりの会話はひそめられていたが、この距離であればじゅうぶんに聞こえるものだった。
「君がすごく面白がるの間違いじゃないのかい、ヒュトロダエウス」
「もちろん、どちらでもあるとも。もっとも彼は、お姫様なんて柄ではないけれどね」
 アゼムは困ったように笑った。エメトセルクの座にも就いた、優秀な魔道士であるかれには、確かに自分の助けなどいらないだろうと思った。
「どちらかといえば、キミによばれることを待っている、王子様かな」
「座についたならなおさら、忙しいだろうし、呼ぶのは迷惑じゃないだろうか」
「……やれやれ、ことごとく裏目に出ているようだね」
 ヒュトロダエウスは肩をすくめた。こうなって当人が素直になるしかない。
「……せっかく気持ち良さそうに眠っているし、起きるまで待つことにするよ」
 アゼムはハーデスを真似て芝生に横たわった。想像どおりのひんやりとした冷たさが、道中で火照ったからだに心地よかった。
 ごろんと寝返りをうって、規則正しい寝息を立てるハーデスを観察する。温かくもすずしい風が肌をなぜたり、木々の枝葉がゆれる音に眠気をさそわれる。やがてまぶたを落として、同じくゆったりと深い呼吸をはじめるのに、それほど時間はかからなかった。
「…………ハァ」
 アゼムが寝入った頃。ハーデスがため息をついて、おもむろにむくりと起き上がった。かれが起きていたことをはじめから知っていたヒュトロダエウスは、その様子をくすくすと笑った。
「フフ、キスしてもらえなくて残念だったねえ」
「……起きるタイミングを見失っていただけだ」
「キミが報せてくれなかったこと、とても残念に思っているようだしね」
 ハーデスは親友からの指摘になにも返さなかったが、胸中ではあれこれと言い訳をした。だいたいなにも報せてこないのはこいつのほうであるとか、そんなに気になるならもっと早く帰ってこいだとか。
「おっと! 急ぎの用事があったことを忘れていたよ」
 ヒュトロダエウスがおおげさでわざとらしい所作で手をたたく。立ち上がるかれにハーデスは胡乱げなまなざしを向けた。余計な気づかいをされていることはわかったが、あえて引き留めることはしなかった。“おもしろい話”と称して、おそろしく退屈な、ミトロン院から定期的に持ち込まれる歴代サメイデアの話——空を飛ぶサメだとか、頭が二つあるサメだとか——の話を続けられるのはごめんだったからだ。
「それじゃあ、あとはごゆっくり」
 今にもスキップをはじめそうな軽やかな足取りで、ヒュトロダエウスは立ち去っていった。
 日差しが雲にかげり、風に肌寒さを覚えたのか、アゼムはむにゃむにゃと何事かをつぶやきながら、ひざを抱えるようにしてうずくまる。ハーデスは、魔法であたたかで軽いうわがけを創り、彼にやさしく被せてやった。その口元にはほんのわずかな——親友以外にはだれにも気づかれないような微笑がうかんでいた。
 起こした上体をふたたび寝かせて、アゼムの幸せそうな寝顔をじっとながめる。長旅で疲れがたまっていたのだろう、深く寝入っている。からだに傷はひとつもないようだが、精神的な疲労は安らげるところで休まねば、回復しないものだ。いくらこの男が、土の上だろうが樹上だろうが海の中だろうがどこでも眠れるといっても、完全な熟睡はしていないに違いない。喚ばれることがあったなら、せめて心地の良い寝床くらいは創ってやるものを、などと考える。
 そのためだけではないが、エメトセルクの座にも就いたのだから。
「……たまには、私たちを頼れ」
 その場にヒュトロダエウスが残っていれば、やれやれといった仕草で「そういうことを彼が起きているときに言わないところが、本当に素直じゃないなあ」と言われていたに違いなかった。


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