In Paradisum

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 統合世界の夜は静けさに満ちていた。はるか海の向こうにはアーモロートの灯火が輝いているのか、それともこの世界にはまだ、他に生命体は存在していないのかわからなかったが、少なくともこの場ではふたりきりだった。
 ハーデスが創り出した、夜をあたたかく過ごすための火塊のゆらめきから目を上げて、満点の星空を映し出す。吸い込まれそうになって、背中から土にたおれこむ。
 世界が分かたれていた頃は、ここに月というおおきな衛星が浮かんでいたらしい。戒律王の封印の枷であった星は、どこの大地が欠けて生まれたものなのだろうか。月は地上にふたたび堕ちて、空虚を埋め立てたのだろうか。災厄のことを思えば、のんきな思考であることは自覚していたが、それでも彼は好奇心をおさえられなかった。かつて月であった地上を望んでみたかった。あらたな世界を五感で体験したかった。それが安易な転移に頼らず、徒歩での遠征にハーデスを誘った理由だ。とてつもなく苦い顔をされたが、彼はその理由をひとつしか知らなかった。歩くのが厭なのは変わらないのか、と旅慣れた彼が笑うと、ハーデスは肩を落としてため息をついた。それでも付き合ってくれるところも変わらぬ優しさだ。
「君の子孫に会ってみたかったな」
 天を見上げながらふとつぶやかれた、彼の純粋そのものの願望にたいして、ハーデスはなんとも複雑な表情をみせた。かつて——災厄によって分かたれる前の彼らは、情を交わした仲であったが、その相手に、他の者と成した子について言われるのは、気まずいという他ない。永らく“なりそこない”と過ごしてきたハーデスにとってはなおさらだった。真なる人としての価値観を失ったわけではないが、どうにも慣れない。何せこの男はその中でも特殊な人物なのだ。
 真なる人といえども、嫉妬心を抱かないというわけではない。むしろ分割されていないぶん、その心に湧く感情の泉はより深いといえるだろう。ただそれ以上に彼らは理性的であった。満ち足りた人々は、相手の意を慮ることも、言葉を尽くすことも惜しまなかった。
 だがこの男に関しては、どうもずれているというか、鈍感というか、自由すぎるというか、何か根本的なところが異なる人種のように思えてならない。
「……もう終わったことだ」
「僕はもっと知りたい。僕の知らない君のことを」
 あまりにも純真すぎる要求にハーデスはため息を吐いた。
「……なんとも思わないのか」
「何をだい?」
「お前は、私の——」
 それ以上は言葉が続かなかった。今のハーデスにとって、彼とそのような関係でいる資格などないように思えたからだ。戒律王やなりそこないに汚染された己など。気にするようなやつではないとわかっている。なりそこないと交わったことも、子を成したことも、この男にとっては大したことではないのだろう。
「……なんとも思わないことはないよ」
 ハーデスは面食らった。意外な返答だった。気にしたこともないと言われるのが関の山だと思っていたのだ。
 彼の口調はおだやかだが、表情を窺うことはできない。いっそ激しく糾弾されたほうがまだマシだった。胃がきりきりと痛んできて、肉体を構成するべきではなかったと後悔する。
 言葉が見つからなかった。なりそこないにたいして愛情など存在しなかったと主張するべきか。だがそれは真実ではなかった。ハーデスは確かに情を抱いてしまった。そのことがわからない男ではない。
 沈黙がながれると、彼はゆっくりと身を起こした。真っ直ぐなまなざしに、ハーデスは向き合うことができなかった。
「君は僕よりもずっと永い時を生きた。感情が移りゆくのは当然だ……でも、君は僕をいちばんに創ってくれた。忘れないでいてくれた。それだけで充分だ。友情は消えない。そうだろう?」
 友情。ハーデスは逸らしていた視線を彼に戻した。寂しげな微笑を向けられて、彼が思い違いをしていることを悟る。しかしなんといえばいいのか? この期におよんで想いは変わらないなどとは言えたものではない。もはや相応しい精神性さえ有していないというのに。
「君の愛した人を、僕も愛したい。だから話を聞かせてほしいんだ。それが誰に向けられたものであろうと、君の愛は僕にとってかけがえのないものだ」
 ああ、なんということだ。
 ハーデスは目を覆ってうつむいた。
「……忘れられるものか」
 分割されてなお人々の光であった魂を。つよく気高い生き様を。
 お前こそが真なる人だ。そのかがやきは今の私には眩すぎる。
「まさか……君は、まだ僕を想ってくれているの、か」
 彼の不安げに揺れた語尾に答えずにいられるほど、ハーデスは誠実さを失うことができなかった。果たしてうなずくこともはばかられたが、小さく「ああ」と風のざわめきにも消えてしまいそうな声で肯定する。
 彼は信じられないほど驚いた。一万と幾千年の時を経ても、子を儲けても、この身が神の権能によって再現されたものでも、変わらないというのか。君はどれだけ情の深い男なのだ。
「……僕の想いも変わらない。時が止まっていたのだから当然だが、あらためて言わせてくれ」
「いい、わかった、それ以上は言うな」
 ハーデスは慌てて言葉をさえぎった。永年経ってもまだ振り回されるはめになろうとは、誰が予想できただろうか。この場にヒュトロダエウスがいたら、腹をかかえて笑っていたに違いない。
「ああ、どうしよう……ちょっとそのまま顔はあげないでいてほしい」
 彼はにやけてしまう口元を覆いながら言った。仮面とフードが必要だ、朱のさした頬や耳を隠すには。
「……なんだ、珍しいな」
「み、見ないでくれって言ったじゃないか」
 ハーデスの口角が心なしかあがっていた。
 久しく見なかったかれの笑みに、余計に顔が熱くなってそっぽを向くと、陰が落ちてきてあごをつかまれる。星の光を映したような黄金色の瞳に、さまざまな感情を湛えながら見下ろされて、彼はすべてを受け入れるように微笑んだ。
「君を愛した誰よりも愛している、ハーデス」
 それだけが彼の唯一譲れない主張だった。
 ハーデスの愛には敵わないとしても。


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