influenza degli stelli

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 くもった窓を指先でなぞる。きゅっと音をたてて線が引かれて、覗き窓からちらちらと降り落ちる雪が見えた。夜空がとけるようにつめたい雫が垂れおちて、その軌跡がまた曇っていく。
 はるかなる塔の一室からは、アーモロート居住区が一望できた。美しき街は雪化粧におおわれて、夜空にまたたく星のように、白く発光していた。
「星を見に行きたい」
 彼が思いついたままの願望を口にすると、曇りかけたガラス越しに、背後のソファに身をゆだねていたハーデスが、開いた本の向こうから目をのぞかせた。
「なんだ、唐突に」
「いいんじゃないかい」
 さらに横のベッドから、ぎしっと音がなった。寝転がっていたヒュトロダエウスが身を起こしたのだ。気だるげな所作は、彼の謎めいた魅力を引き立てる。まぶたを二度ほど瞬かせたのは、物質的視界を取り戻すためだろうか。
 この窓の向こうに見える世界も、彼らの目でみれば、また異なる輝きを見せるのだろうな。彼のため息で窓ガラスは完全に結露した。
「ずっと閉じこもってばかりだと、良いイデアも浮かんでこないからね。たまにはキミの創造物も管理局に持ち込んでほしいな、ハーデス」
「……お前が閉じこもっているのは、私の部屋なんだが」
 ハーデスの言葉は当然ながら黙殺された。親友の微笑みはまるで「そんなことは知っているよ、それがどうかしたのかい?」と言わんばかりだ。出て行けと言わないことも見越している。
 いまだ窓の外を眺めつづけているあの男が、この街に帰ってきたときはいつもこうだった。
 首都に滞在していることがほとんどない彼は、個人の部屋を持っておらず(市民権があるのだから問題はないのだが、本人が遠慮したのだ)、結果的にヒュトロダエウスの提案によって半同棲という形になっている。彼の旅の話を聞くのが大好きなその創造物管理局局長は、彼が帰ってくるたびにふたりの部屋に転がりこんだ。そのため彼が帰ってくるたびに、室内は一気に人口密度を増すのだが、ハーデスはそれが嫌いではなかった。
「……それになぜ、私まで行くことになっている」
 本に視線を戻しながら言葉をつづける。目は文字を追うように動いてみせてはいたものの、その実、内容はまったく頭に入ってこなかった。
 そもそも、あの男は、行きたいところがあればひとりで勝手にいなくなる奴なのだ。今回も思いつきを口にしただけで、いつものようにふらっと旅立つに決まっている。
 同じ行間をいったりきたりしているハーデスを、ヒュトロダエウスはにやにやとした笑みを浮かべながらじっと見つめていた。
「…………言いたいことがあるなら言え、ヒュトロダエウス」
 ひしひしと感じる視線から逃れるように、ぱたんと本を閉じる。注視する対象もなくなったというのに、眉間の皺は深まるばかりだ。
「せっかくのデートのお誘いを断るのかい?」
「……はあ?」
 ヒュトロダエウスの言葉に、あいつにそんなつもりはないだろう、と片眉を吊りあげたハーデスだったが、はっとして口をつぐんだ。雪の光に魅入っていたはずの男が、こちらを振り返っていることに気づいたからだ。
「もし、よかったら、と……思ったんだけど、君が厭なら無理にとは言わない」
 目線をそらしたまま言われて、ハーデスはばつの悪い顔をしながら「厭というわけじゃない」とぼそぼそ呟いた。厭じゃない、それは間違いではないが、一体どういう風の吹きまわしだというのか。
(デート……デートなのか?)
 ヒュトロダエウスの揶揄でしかないと思われたそれが、俄然、真実味を帯びてくる。いや、その気があるならあんなにも長期間、街を出ていったりするだろうか。ろくに連絡もよこさないで、エーテルを追っても視えないほど、遠くまで行っていることさえある。
 やきもきするハーデスは、ヒュトロダエウスが行方を視てあげようかと声をかけるほどだ。素直ではない彼は、いらん、というのが常だったが。
「ずいぶん嬉しそうだね、ハーデス」
 余計な口をひらくと墓穴を掘る、ということが身にしみてわかっているハーデスは、仮面をつけて視線を隠し、だんまりを決め込んだ。ヒュトロダエウスはいつもの食えない笑みを浮かべ、あの男はにっこりと恒星のように笑っていた。
「はあ……さっさと行くぞ」
 立ち上がり、漆黒のローブをひるがえす。
「えっ」と目を丸くした男に「お前のことだ、どうせ今から行こうと言い出すのはわかっている」とハーデスは肩をすくめた。こいつの気が変わらないうちにという思いもなくはなかった。
「僕にも遠慮する気持ちくらいある」と憤慨したような言葉が返ってきたのは、無視した。だいたい、とつぜん音沙汰もなくなったりだとか、余計なことに首を突っ込んで、厄介ごとを抱えていたりだとか、他人に心配ばかりかけさせるようなやつが、そんな配慮をもちあわせているとは思えない。
 といえば「君は心配性が過ぎる」と言い返されて、ヒュトロダエウスに「また夫婦喧嘩がはじまってる」などとからかわれるのだった。
「留守はワタシにまかせて。ゆっくりしておいでよ」
 帰ってきたときのふたりのエーテルの色が楽しみだなあ、と思いながら、ヒュトロダエウスがひらひらと手を振ると、男はきょとんとした顔で発言した。
「ヒュトロダエウスは来ないのかい」
 ああ……とヒュトロダエウスは振っていた手でそのまま顔を覆った。指のすきまから親友の様子をみれば、かわいそうに完全に絶句していた。
「えーと、ワタシはいいかな。いつも“視て”いるしね」
「そうか……それなら“エメトセルク”もわざわざ僕に付き合う必要はないのかな」
 彼らが同じエーテル視にすぐれた目をもっているのは周知の事実だ。ヒュトロダエウスのほうが“視る”ことにかけては一枚上手とはいえ、わざわざ物理的におもむくほどでもないのかもしれない。
「ひとりで行くよ」
 横を通りすがろうとした彼を、硬直していたハーデスはとっさに「待て」とひきとめた。
「……お前は、どうなんだ」
「どうって何がだい」
 それが言葉足らずであることを、ハーデスは言った瞬間から認めていた。当然の疑問だ。ただ率直に言いたいことを伝えられるほど、まだ大人ではなかっただけだ。
 だがこいつには言わねば伝わらない。
 ハーデスはばれないようにひっそりと深く息を吸った。
「……お前にとって私は、必要か、不要か、どっちなんだ」
 男はやや面食らったように、ハーデスをまじまじと見つめた。
「おやおや、情熱的な問いかけだ」
 フフフ、とわらうヒュトロダエウスと、相対する男の反応で、自分が誤解をまねく発言をしたことに気がついたハーデスは、顔をかっと熱くしあわてて訂正の口を開いた。
「そっ……ういう意味じゃない! ただついてきてほしいというなら、ついていってやるとそれだけの話であってだな……お前、わかってて言っているだろう……はあ」
「いやあ、ワタシには一種の告白のようにしか聞こえなかったけれど」
 言い合いをしても勝ち目がないどころか、全面的に自分の過ちであるものはどうしようもなかった。とっさに出てしまった言葉とはいえ、どうしてあんなことを口走ってしまったのか。ハーデスは己が信じられなかった。こういう場合は矛先を変えるに限る、と、彼に向き直る。
「……ハァ……で、どうなんだ」
 ハーデスに言われたことを反芻して理解したのか、次に硬直したのは彼だった。熱くなる頬を自覚した男は顔に手をやって、今は仮面を身につけてもいなければフードも被っていないことに気がついた。ハーデスといえば、もっぱら友人ふたりに振り回される立場であるというのに、ときどきこうした不意打ちをしかけてくるのだ。
「……必要、だ。君が一緒にきてくれたら嬉しい」
「だったら、行くぞ」
 ハーデスは彼の腕をつかんで、強引に部屋を出た。
 これ以上、からかいの種をあいつに与えてはいけない。
「いってらっしゃい」とふたたびベッドに寝転がったヒュトロダエウスが、あの目で覗き視を……しているのかしていないのかはともかく、後から冷やかしてくるのは確定しているとしてもだ。

 アーモロート郊外までの道のりは無言だった。ハーデスは必要なときは雄弁になるが、そうでなければ饒舌なほうではなかった。となりを一歩先に進む男も、長らく海向こうを旅していたせいで話し方をも忘れてしまったかのように、なにを喋っていいのかわからなかった。だがふたりの間にながれる沈黙はけっして居心地の悪いものではなかった。
「っはあ……」
 てのひらにふきかけた白い息がたちのぼる。魔法で周囲のエーテルを調整していないので、もう鼻や指先はあかくなりかけていた。
 氷のエーテルが支配する環境を肌で感じたいといえば、ハーデスは相変わらず変なやつだとでも言いたげに微妙な顔をしたが、止めることはしなかった。だがすっかり冷えたその手のひらは看過できなかったらしい。となりを歩いていたハーデスに片手をさらわれて、感覚の麻痺した指先に血がかよいはじめる。
「もう充分だろう」
 つながった手を通じて、あたたかさが全身をかけめぐった。フードをうっすらと白くおおっていた砂のように細かな雪も、溶けて蒸発していく。
 “充分”に温まっても男は手のひらを離さなかった。ぎゅっと握りしめると、迷うような間をおいて握り返される。
「ところで、どこまで行くつもりだ」
 ハーデスは若干の緊張から逃れるように口を開いた。
「とりあえず、あまり人目につかないところに」
「何をするつもりだ」
「だって、せっかく君を連れ出せたんだ」
「お前な……私は十四人委員会の一員で……」
 市民を代表する立場であり——言葉のつづきはふかいため息によって押し殺された。これは“星を見る”という漠然とした目的にたいして、相手まかせで計画を怠った自分のミスだと頭をかかえる。
「……仕方ない」
 一歩うしろを歩いていたハーデスが前へ進む。足元につむじ風がうずまき、ふたりは粉雪とともにふわりと浮いた。どこまでも上昇し、アーモロートの街並みがあっという間に見下ろされ、白雪が夜を舞い、星のように瞬く光景が広がった。
 はぁ……と感嘆の息を吐けば、水蒸気が空中をくもらせたが、肺を凍てつかせるような寒さはもう感じなかった。全身をハーデスのエーテルに包みこまれているのだ。
 ああ、この世界は、ハーデスにはどう視えるのだろう。
 男は少しでも万物の流れを感じ取ろうと目をつむってみたが、やはり目の前は真っ暗で、彼らのようにはいかない。けれどきっと美しさは同じだ。そう思ってとなりを見やると、仮面の奥の視線とかちあった。ハーデスは景色なんかまったく見てはいなかったのだ。
「もっと高いところへ行くんだろう?」
 男がきらきらと星のような瞳でねだると、ハーデスはやれやれとでも言うように、しかし優しく目を細めて、彼の腰を抱くようにさらに濃いエーテルをまとわりつかせた。
 地表はますます遠ざかり、ぶ厚い雲をつきぬける。その重みにフードがおろされて、水滴が髪の先にきらめいた。
 天の霧を抜けるとそこには、果てしない夜闇と、それを照らす星々が燦然と輝いていた。どこを振り返っても、無限の宇宙が横たわっている。
「吸い込まれそうだ……」
 うっとりと呟くと、心なしか手をつよく握りなおされる。手綱のように結ばれた指先を解こうとしてみれば、頑なな手に逆に引きよせられて、おとなしく身をゆだねれば、雲の上でダンスをおどるようにふたりの影が重なった。
 白い息がまじわり、鼻先がふれあって、こつん、と仮面同士が軽い音をたててぶつかった。胸元からつま先まで体温がひとつになっていた。どちらからともなく身を擦りあわせて、これより先に進みたいような、進みたくないような、もどかしい熱がたまっていく。
「満足か?」
「……この程度で、僕が?」
 薄氷が割れるように、男の仮面が剥がれ落ちた。
「君ならもっと遠くまで、はるか先まで、僕を連れて行けるだろう? ハーデス……」
 貪欲にささやきながら、赤き仮面をも引き剥がす。よき市民たる象徴を脱ぎ捨てた、この自由性に、惹かれているはずだ。放り投げた表層は、雲の狭間へ落ちるまえに、ハーデスのエーテルとして取り込まれた。
 危険な男だ、とハーデスは息をのんだ。明らかな異分子、異端者、ただならぬ者。その魂を視たときからわかっていたことだった。永遠の平和が約束されたこの星で、それは悪魔的であり救世主のようでもあった。黙っているだけでは飲まれてしまう。本当にこの男の手綱を握っていられるのか、焦燥に落ちるまえに。
 ハーデスは深く息を吐いて、目を閉ざした。エーテルの奔流、天の河のように魂の道標が広がり、空に流れる星の血脈に手をのばす。
 満ちあふれていく魔力が肉体の許容量を超える前に、容れ物は創り変えられ、影のように伸びて、ひとつの闇を生み出した。ハーデスの手のひらの中にすっかりおさまった、明星のごとき魂は、宇宙を指さした。
「今の君にはなにが視える? 僕たちの生命さえちっぽけに思えるほどの、悠久の時を超えて燃え盛る、星の終わりが視えるかい? あの無数の瞬きのひとつひとつが、終焉の灯火だなんて、信じられない」
 エーテルの檻に守られた男が、夢中になって宙を泳いだ。眼前の広漠たる闇を照らす光を数えてから、体をひっくり返し、途方もなく大きな塊を真下にため息を漏らす。
「そして……、なんて美しいんだろう……僕たちはこの星を守っているんだ」
 ハーデスの変身魔法の余波によってひきさかれた雲間から、首都アーモロートの街明かりが覗いていた。彼の強大なる魔法はおおくの市民の目に触れたことだろう。今頃ヒュトロダエウスの目もふたつの影を追っているだろうか。あの星の中で彼の千里眼から逃れるすべはなかったが、無窮の宇宙の果てまで見通すことは、さすがに不可能に違いない。
「行こう、ハーデス。想像のかぎり、僕らは飛べる」
 重力に逆らって遠ざかり、星が手中におさまるほど小さくなっていくと、期待と焦燥と戦慄と恐怖がないまぜになった昂りが胸をうちならした。もはや自分ひとりでは帰ることもままならない。あの故郷の光さえ届かなくなってしまったら、帰る場所を失ってしまったら、いったい僕たちはどうなってしまうのだろう?
 ハーデスの創った牢獄の中から、冥王の姿を見上げても、表情をうかがい知ることさえできない。壁を内側から叩いて、ここから出してくれ! と叫べば帰してくれるのだろうか。それともすでに、彼にさえ後戻りできないところまで来ていて、この果てしのない宇宙空間をふたりでさまよって、やがて身を維持するエーテルも尽きて、無数にただよう塵の一部になるのだろうか。
 ぎゅっと握りしめた拳に、汗がにじんでいた。それを打ち振るうなんて出来るわけがない。己の命を昇華する創造魔法を行う者は、こんな気持ちを味わうのだろうか、死という底なしの概念に見つめられる、ぞくぞくするような興奮。
 汗ばんだ手を魔力壁にくっつけて、かわいた喉で何度も嚥下しながら、通り過ぎていく大きな大きな惑星をながめる。そうして陰が過ぎると、鮮烈な光がふたりを貫いた。あまりに大いなる恒星のエーテル! 強固な障壁越しでさえ、その熱量に溶けてしまうような錯覚に陥る。人の手ではなしえない規模の紅炎、プロミネンスが踊っている。
「ハーデス、ここから出してくれ、自分の身を守るくらいの魔法なら扱える」
 直接この目で見たかった。魔力で編み上げた防護壁でからだを覆うと、少々逡巡する気配があった後、エーテリアルジェイルが割れた。
 宙に放り出された男は、尖った指につまみあげられ、その巨躯の肩に乗せられた。自分で移動することは許されないようだ。煌々とした熱をあびながら頭部にもたれかかる。
「ハーデス……つぎの行き先は君が決めてかまわない」
 闇のヴェールをなでながら、内緒話をするように唇を寄せる。
 我らが母星へ帰ろうか。それともこのままふたりで旅をつづけようか。それとも帰るほどの力はもう残っていないのだろうか。どちらにせよ分かりはしない、ひとりで帰れもしないのだ。本当は帰れるのだとしても、嘘をついて宇宙をさまよってもいいんだよ、ハーデス。
「星へ還ることができなかった魂はどこへ行くのか、教えてほしい……」
 ヒトの器官を持たない異形の姿にもかかわらず、息をのむ音が聞こえたような気がした。
「そこまでだよ、ふたりとも」
 ハーデスは意識を取り戻したようにはっとした。ヒュトロダエウスの形をしたエーテルが目の前にたたずんでいた。形といっても純粋なるエーテル体の色をみてそう判断したまでであって、いつもの微笑や声音まで再現されているわけではない。
「そこにいるのは、ヒュトロダエウス?」
「そっか……キミにはワタシの姿が視えないんだったね」
 現に肩にすわる男には、なじみの気配こそ感じられるものの、はっきりとした声や形はわからなかった。きょろきょろと辺りを見回す彼に、ヒュトロダエウスはフフッと笑って近づくと、頬をなでるような動きをした。
「ワタシを置いたまま、ふたりで行方知れずになろうなんて……ひどいことをするね」
 もちろん触れられた感覚などあるはずもなかったが、ある種の意思力は伝わったのだろう、男は気まずそうに目をそらした。ヒュトロダエウスはそんな彼の視線の先、隣にすわって「さあ、帰ろうか」と有無を言わせない強さで言った。
「…………帰るぞ」
 ハーデスが聞こえない彼のかわりに旅の終わりを告げると、彼はほんのすこし寂しげに笑ってうなずいた。

 地表に降り立ち、急いで部屋へと戻る。
 ベッドにぐったりと横たわったヒュトロダエウスが「おかえり……」と手を振った。
「ワタシの眼でもほとんど視えないくらい、どんどん遠くへ行くものだから、さすがに少し焦ったよ。宇宙まで意思を飛ばしたのもはじめてだ。はあ……すごく疲れたよ……」
 眉間をおさえながら寝返りをうったヒュトロダエウスの首元は、汗に濡れていて、ひどく無防備だった。
 腕の影からのぞいた表情は、相変わらずの微笑みをたたえていて、それはいつもより疲れたような色を浮かべていたものの、責めるような、あるいは詰るような語気はなく、あくまでも穏やかだった。しかしそれが彼の本当の情緒であるのかどうか、見抜く眼や手段を男は持ち合わせていなかった。
 ハーデスはベッドに腰かけて、エーテルの乱れをはかるように白い首筋に指を当てた。男は脇に座りこんで、みだれてシーツに広がった髪に触れた。
「ごめんよ、ヒュトロダエウス。まるでなにかに取り憑かれていたような気分だ。君が来てくれなかったら、どうなっていたことか。ハーデスを世界から奪おうとしたなんて、自分でも信じられない……」
 ハーデスは、彼の言葉を鼻でわらって一蹴した。
「私はお前のお目付け役をしていただけだ。ふらふらしているお前と違って、何を言われても、この星から去るつもりなどない」
「そんなこと言って、ワタシには結構クラッときているように“視えた”けれどなあ」
 ハーデスは一瞬にして口をつぐんだ。図星を突かれたときの反応であることは隠しようもなかったが、これ以上突っ込まれる要素を与えるよりはマシだった。
「……わかっているよ、キミたちが勝手にこの星を見捨てていったりなんてしないことはね」
 むしろ対極の位置にいると言ってもいいだろう。永きにわたって平穏を守りつづけてきた世界だが、もしも未曾有の危機に瀕することがあったなら、彼らは決して自分たちだけで逃げたりはしない。他のよき市民と同様に、いやもしくはそれ以上に、命も何をも賭して星を守る選択をするのだろう。
 心の奥底であの人はハーデスを信じている。どのような誘惑を持ってしても、決して曲げられない頑強な意思を知っているからこそ、彼は安心して身をゆだねられるのだ。
「それにワタシも良いものを見せてもらったし、気にすることはないよ」
「良いもの? ああ……あのプロミネンスは僕がみてきた自然現象の中でもいちばん美しかったなあ……」
「違う違う、キミたちのことだよ」
 恒星の脈動に恍惚と思いをはせていた彼は、「え、僕たちが?」と焦ったように顔を上げた。ハーデスよりもわかりやすい反応だ。ヒュトロダエウスは意味深な笑みを浮かべてみせた。
「キミたち自身がまるで、一等星のように夜空でかがやいていたよ」
「一等星……僕にはわからないけれど」
 どちらとも取れる発言に男は悩んだ。そもそもエーテル視がどこまで……例えば肉体的接触なら、どの程度まで詳細に視えるのかわからないのだ。普通の視界なら、魔法で視力を強化したところで分厚い雲に阻まれてみえなかったのは確かだが。
 ハーデスならわかるのだろうかと目を向ければ、思ったよりも素知らぬ顔をしていて安堵する。
「さて……魔力も回復してきたことだし、そろそろ帰ろうかな、明日は早く起きないと」
「なんだ、大物の審査依頼でも来るのか」
「まあ、そんなところかな」
 ヒュトロダエウスは、なんとなく言葉を濁しながら起きあがり身なりをかるく整えた。どこかわくわくするように声が弾んでいる。創造物管理局の局長だけあって、やはり新しいイデアには心がおどるらしい。
「ところでキミたち、キスはしたのかい?」
 男はシーツに顔を突っ伏した。ハーデスはさっさと出ていけと喉まで出かかった言葉をどうにかのみこんだ。

 ふたりきりになった室内は、星を反射した雪明かりで青白く満たされていた。
 夜はすっかり更けていて、普段であればとっくに眠りに落ちている時間だったが、男は目をつむってはいるものの、体にくすぶる熱をもてあまして眠れずにいた。この身にあびたセイリオスの魔力が、放散せずにいつまでもまとわりついているようだった。
 何度目かわからぬ寝がえりを打つと、微妙な距離感をたもっていた幅がすこし狭まって、はからずも指先同士が触れあった。
 とっさに離そうとした手が、雪の降りしきる市内を歩いていたときのように囚われる。
「ハーデス……」
 起こしてしまったかい、と続ける前に、熱をはらんだ眼差しに射抜かれる。
 つながった指先をこするように握りあい、指の腹で甲をもんで、爪の先で掌のしわを掻きあった。
 ひくっと喉が震えて、息が切れていることを自覚する。神経がたかぶってむきだしになっている。体の中心で熱のかたまりが紅炎をほとばしらせるのを待っている。
 ハーデスもおなじなのだ。堪えられずに身をよせれば、心臓が重なって、はげしい鼓動が共鳴した。
 興奮のままに脚をからめる。ぎしりとベッドをきしんだ。またがった腰の上から見下ろすと、ハーデスの両手が太ももをせりあがった。それだけで身をくねらせてしまいそうな、ぞわぞわとした感覚に支配される。たまらず上体を倒し、額と鼻頭をつき合わせて、荒い吐息を隠しもせずに唇を開いた。
「本当は、あのとき、僕をどこに連れていってくれるつもりだったんだい……」
「……教えてやろうか」
 星の光がひとつに重なった。


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