aqua vitae

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 創造機関より持ちこまれたイデアを観察していたヒュトロダエウスは、眼球に訴えられた疲労感を受け入れ、眉間をおさえながらううんと伸びをした。
 市民がもちこむ大抵のイデアは、他の役員がある程度選別するのだが、アカデミアで複数の研究者が、共同で練りあげた創造物などの大物や、判断に困るものに関しては、彼が直接“視て”、共有するにふさわしいイデアであるかを判断することになる。
 さまざまな創造物を視てたのしむことができる仕事は、まさに適材適所で気に入ってはいるものの、今日は特別、視るものが多かった。
 暇なときは暇なのになあ、と、ヒュトロダエウスは細く息を吐いた。この分ではいつもの時間に帰れないかもしれない。
 親友のハーデスと、その恋人の彼とともに過ごす、あたたかな空間、帰る場所を思い浮かべる。ひょんなことから一緒に暮らすようになってしまった彼らだが、今となっては、あの場所に帰るようになったことに、何ら違和感もなく馴染んでしまっていた。
 無意識のうちに視界がきりかわり、世界をいろどるエーテルの色が広がっていく。
 彼は今どこにいるのだろうか。
 アーモロートの無数の生命のかがやきの中で、ひときわ煌々と、明星のごとき光をはなつ魂を視つける。まさしく現在ヒュトロダエウスの目を悩ませている元凶である、アカデミアの方角だ。彼の創ったものがまた問題でも起こしたのだろうか。まわりには他の命の光が集まっていた。
 ヒュトロダエウスは意識的にまぶたを閉じた。どこまでも深く彼のかがやきを見透そうとしてしまう。世界がきちんと暗闇につつまれてから、ゆっくりと瞼を持ちあげる。
 昼の時間はもうとっくに過ぎている。身体が空腹を申告し、そして、それ以上にひどく喉が渇いていた。
 ヒュトロダエウスは小瓶を取りだした。濃密なエーテルが詰められて、明かりに透かすとそれだけできらきらと瞬いて美しいが、彼の目で視れば、それが誰の魔力から抽出したのかがわかる。
 蓋を開けると、匂いもなにもないはずのそれに、くらくらとさせられる。誘われるまま小瓶をかたむけ、ほんの一滴、舌にのせる。
「……はあ……」
 砂漠に落ちた一滴の水のように、渇いた身体へ一瞬のうちに浸透していく。もっとほしい、足りない、あふれるほど満たされて、このエーテルをいつまでも味わっていたい。
 ヒュトロダエウスにとっての食事は、一般的な市民とは異なっていた。
 彼がもっと幼かった頃は、エーテルを視る目をうまく制御できなかった。そのせいで口腔をつうじて咀嚼し、飲みこみ、消化するという生物的過程が、どうしてもなじめなかったのだ。
 視覚的に食欲を増進させる要素が、万有魔力のかがやきに阻まれたせいか。あるいは生命を食すという行為をより鮮明に感じ取ってしまったせいか。むしろもっとおいしそうなものが、あたり一面にただよっていたせいか。
 とはいえ食事とは、星に満ちる環境エーテルを、物質を通して摂取しているに過ぎない。この目に視えるエーテルをつかまえようとしても、すり抜けてしまうだけだが、地脈から星の命を吸い上げて成長する植物と、それを食して育った生き物たち、時間をかけて物質に染み込んだエーテルを、われわれヒトは口にしているのだ。要はエーテルさえ取り込めば肉体が維持できるのであれば、液体に抽出したエーテルを、食事をしなくてもいい配分に濃縮精製してそれを飲めばいい。ただ致命的な問題として、あまりに味気に欠けている。
 彼の掌におさまっている小瓶の中のエーテルは、しかしヒュトロダエウスにとってのご馳走に他ならない。味はない、匂いもない、ただとろりと喉を過ぎていくだけの液体だが、唯一無二の色と光が、肉体の隅々にまで浸透し、己のエーテルに変換されていく、その感覚は極上だった。
 それを味わえる人間は限られていて、彼の親友か、他にも数人いるかどうかだ。その上、食事が苦手な人と限ってしまえば、この手段を好むひとなどヒュトロダエウスの知る限りでは誰もいなかった。
 需要のないところに、そのようなピンポイントなイデアが生まれるはずもない。
 あきらめて他の人と同じような食事をしていたヒュトロダエウスだったが、実のところ苦手であることを親友のハーデスにぽろりとこぼしたことがあった。すると彼は類稀なる魔法の才覚を発揮しつつ、エーテルの研究を行い、食用エーテルの理論を完成させたのだった。
 きらりと光るエーテルをまた一雫、滴らせる。
 疲れ果てた眼球神経、魔力回路、血脈に力がみなぎる。
 濃縮魔力は誰から抽出しても効果は同じだが、このエーテルの源は、ハーデスではない。彼の恋人のものだ。ひとめみて美味しそうだと感じてしまって以来、ヒュトロダエウスはずっと彼のエーテルを食している。
 ——抽出して精製するだけが摂取する方法とは限らない。
(……直接、食べたいなあ……)
 だらりと天井を見上げる。むきだしになった喉仏がひっそりと上下した。

(おまけ・あの吸いするヒュ)
「ぁ……ヒュトロ……っ」
 首筋を走る血管に舌をはわせる。
 ほとんど朝方に帰ってきたヒュトロダエウスは、ぽつぽつと生えた無精髭もそのままに、ハーデスと彼が眠るベッドに倒れこんだ。
 そして抱き合っていた彼を無言で引き剥がして、乗り上げて、抱きしめて、今まさに捕食を開始しようとしているところだった。
「とてもお腹が空いてるんだ……いいかい?」
 ほとんど寝ぼけている彼の耳元へささやく。
 問いかけながらもその指は、彼の喉元へ突きたてられていた。
「ん……」
 彼はぼんやりとうなずいた。その瞬間、ヒュトロダエウスの指先があわく発光する。
「ぁ……ぅ、ぁあ……っ!」
 彼の喉元に、魔力の刻印が焼きついた。
 他者のエーテルを奪い、自分のものへと変換する『ドレイン』を応用した魔法だ。構築した術式を対象の肉体へ刻みつけると、術者が解除するまでいつでも好きなようにエーテルを吸いあげることが可能になる。
「……いただきます」
 ちゅうと首筋に吸いつく。
 ヒュトロダエウスの刻んだマーキングが発光し、彼の身体がびくんと跳ねた。
「あっ……あっ……」
 とろけるようなエーテルがヒュトロダエウスの喉に流れこむ。物質的な感覚はないものの、ほとんど反射的にごくりと嚥下する。直接摂取する魔力の味は抽出されたエーテルの比ではなかった。
 彼をつねにそばに置いて、欲しくなったらいつでも好きなときに食べることができたら……想像上の世界ならば何をしても自由だと、ヒュトロダエウスは夢想した。
 隣ではハーデスが規則正しい呼吸を繰りかえしている。そのエーテルの揺らぎも、彼が深い眠りについている波長を示していた。
「……、」
 吸魔の余韻できらきらとエーテルを垂れ流す彼を見下ろし、——真なる名を呼ぶ。
 エーテルを吸われるえもいわれぬ快楽にとろけた夢見心地のまなざしが、ヒュトロダエウスを見上げた。普段仮面の奥に秘められた瞳は、彼の生命のかがやきを視ていたが、物質的な視界しか映さぬ目には、闇だけが映っているように見えた。
 遠く白みはじめているはずの空が雲に遮られ、薄青い星明かりに満たされていた室内が、陰に落ちる。
 くぐもった声がひそやかに響いた。


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