the Necromancer

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 この世界はエーテルであふれている。生命の源であり万物を構成する要素であり魂を形作るものだ。物質界と重なるようにして存在するその流れを、普通の人間は視分けることができないが、まれに冥界を覗ける目をもつ者が生まれることもあった。
 そのうちのひとりが、今、腕組みながら仁王立ちするハーデスという名の男である。
 特にこの時節は、星をめぐる輝きがよく視えた。
 たゆたう魂は愉しげに生まれ変わる日を待ち望み、冥界の底からあらわれては地脈と風脈を流れていった。目を持たぬ者でも感じ取れるほどの死者の喧騒。そのせいもあるだろうか、冥界の愛子の指先は絶え間なく二の腕を叩いており、苛立ちを露わにしていた。
「……無駄が多すぎる」
 アナイダ・アカデミアの創造場の中心で、様々な魔法を試行する友人を眺めながら、ハーデスはぼやいた。
 彼の目にはエーテルの流れがよく視える。どのように練り上げ、構築すれば効率よく魔法を扱えるのか手に取るようにわかるのだ。視えるというのはそれだけで大した才能だが、その上で努力を怠らない真面目な人物でもあったので、彼の右に出る魔道士はもはやほとんど存在しなかった。
 そんな男と比べれば、ほとんどの人の魔法は見劣りしてしまう。しかしハーデスは決して自身の力を奢っているわけでもなく、過小評価しているわけでもない。ただ——友人があまりにも、子供でももっとマシなやり方をするとしか思えない、稚拙な魔法を行使するものだから、辛口にならざるを得ないというわけだ。
「でも魔法としてなりたっている。君ほどの規模とはいかなくとも、平均より優っているのは確かじゃないか」
「それはお前自身の魔力量が馬鹿げているからだ。普通の人間がお前と同じようにやったら、肉体もろとも消滅するぞ」
「なら何の問題もない、馬鹿げた魔力をもつ僕がやる分には。そうだろう?」
 たしかに必要性はない。本人がそれで必要な魔法を使えていて、魔道を極める気もないのなら。しかし視る目を持つハーデスにはどうしても我慢ならなかった。散らかった部屋を見れば片付けたいと思うように、 めちゃくちゃな構成で力任せに発動される魔法をみるのは耐えがたいのだ。
「才能があるならそれを活かせ。能力のある者が責務を果たさなくてどうする」
「活かすもなにも使い途なんてろくにないじゃないか。戦闘能力ならすでに君にも劣らないわけだし」
 他ならぬエメトセルクの座を継いだ者にいわれると、その説得力にぐうの音も出なくなるところだが——その上、説教を受けている当人はしばしば行方をくらましては世話をかけている——それでもなかなか引き下がらなかった。なぜなら男は複雑な魔法理論にたいして苦手意識を持っている。アカデミアでもついにそれは克服されることなく現在に至っていた。
「役に立つか、立たないか、ではない。それはお前もわかっているはずだ。我々はすでに物欲から解放されて久しい。つまり真に必要なものなどもはや存在しないということだ。ならばなぜ生きる?」
 それは、叡智の探求こそが善き市民としての在り方であり——懇々と理念を説きはじめた友の言葉を男は手を振ってさえぎった。
「ああ、もう、わかったよ。まったくヒュトロダエウスの言う通りだ。君は立派な“エメトセルク”に違いない」
 これ以上余計な面倒を引き起こす前に、男は自らの手に光り輝く剣を創造した。誰もが物心つく前から親しみ慣れる創造魔法。原初にして深淵といわれるほど奥深く可能性そのものの魔法だ。決まった体系は存在せず、想像力だけがその源だ。ハーデスはその美しさに目を奪われた。彼の生み出した剣は、彼の魂の色に染まっている。
 そうしてこの世界に顕現された剣を、男は出し抜けにハーデスにむけて放り投げた。
「なんのつもりだ」反射的に受け止めたものの、意図がよめずに声をかける。
「僕は魔術を修業する。君は剣術で対抗する。……役に立つ、立たないって問題じゃないんだろう?」
 ハーデスは露骨に顔をしかめた。ほとんどは仮面に隠れているが、長い付き合いである男にとっては見なくてもわかることだった。ハーデスは身体を動かすのが好きではなかった。魔道に長けているのをいいことに、なんでもそれで済まそうとするのだ。そんなのは不公平だ。男はまさにしてやったりという笑みを浮かべて、剣を構えるよう促した。
「はぁ……後悔するなよ」
 ハーデスは受け取った魔剣を片手にたずさえた。
 体を動かすのは厭だが、それは決して“できない”からというわけではない。
 使い途があるかどうかは問題ではないと説いたものの、彼自身は非効率を嫌う性質をしている。またある意味でまじめな性格は、最短かつ最高効率で努力を実らせた。
 すなわち稀代の魔道士であるハーデスの剣術は、披露されることこそ滅多にないものの、ほとんどの市民より優れた腕前だといえる。
 ——目の前に対峙する男を除けば。
 物理的な武器を扱うなど、前時代的な、野蛮なふるまいではないかとの主張も存在するが、彼のそれに限っていえば、野蛮という言葉ほどふさわしくないものはないだろう。彼の戦う姿は洗練されていて、踊っているのだといわれても不思議はなかった。剣がうちすえられるたび、燦然と輝く魂に、ハーデスは惹かれずにはいられなかった。完全に真似ることはできないが、少なくとも、男がハーデスの魔法を観察するよりも、はるかに多くの時間を費やして“視ていた”ことは確かだ。
「先手は譲ってやる」
 ハーデスには絶対的な自信があり、それを裏付ける実力があった。男は挑発じみた言葉を受けて闘争心に火がついたようであった。片手を天にかかげる儀式的な身構えから、エーテルの循環が生じる。
『トリプル』
 多重詠唱の論理が構築される。高度な魔法には違いないが、欠陥だらけの未熟な技術だ。割れた器に水をそそいでいるように、練られた魔力のほとんどがこぼれ落ちている。それらが無駄を省き、如何なく発揮されたとしたなら、素晴らしい魔道士となるだろうに、恵まれた才覚は眠ったままだ。
 男の指先にエーテルが収束する。単純な構成の火魔法だ。当然それは無詠唱だったが、ハーデスにとっては聞くまでもない。
 するどい勢いで放たれた一発目の『ファイガ』はフードをかすめて通り過ぎた。風圧が彼の頭髪をあらわにしたが、それだけだ。ハーデスは小手調べの魔法を開始の合図に、照準を合わせる男に肉薄した。紅いエーテルの輝きが迸る。
「初歩魔術しか使えないのか?」
「……っ!」
 二発目は横薙ぎに払われた。並の魔道士が使うものよりかは遥かに強力な火魔法だが、構成の粗さが強度を脆くしている。追撃の剣は空ぶった。のけぞった男のフードもまた落ちたが、彼の髪先はわずかに散った。
 すでに近接の間合いに入っている。魔道士としてそれは致命的だ。ハーデスは容赦なく上段から振り下ろした。
 ばりん、と音を立てて二重障壁のひとつが割れる。透明の物理結界『ウォール』に防がれるのは承知の上だった。すかさず後ろへと飛ぶ。
『ファイジャ』
 爆風が吹き荒れたが予兆を察知したハーデスはもうそこにはいない。ウォールで稼いだ時間をうまく使ったようだが、戦術としては甘すぎるな、と考える余裕さえ持ちながら、砂塵にまぎれて背後にまわり最後の障壁を両断した。
「無理だっ!」
 尻をついて逃げようとしたところを首筋に剣先を突きつけられ、男は嘆いた。
 エーテルを視ることのできる相手に対し、魔法で挑むなど分が悪いにもほどがあるとその目は訴えていた。
「手加減してほしかったのか? それは悪いことをしたな」
 まったく悪いとは思っていない口調で言いながら、ハーデスは魔剣を手放した。エーテルへと分解されるきらめきに僅か魅せられる。
「…………そこまでは言ってない。ただ僕が魔法で戦うときに限ってそれを利用するのはどうなんだい?」
「何を言っている。私がお前とやるときに“視なかった”ことなど一度もないが……それで拮抗していたのはお前の近接戦闘技術が優れているからであって……気づかなかったのか?」
「え……」男はハーデスと同じくらい唖然とした声を出した。
 エーテルを読み取るということは、魔法に限らず筋力の働きや感情の揺らぎさえも手中に収められる。この男は魔法はともかく武器を用いる技能はずば抜けているのだ、そうしなければ、それこそハーデスにとって不利になるだろう。
「……要するにお前の魔術が拙いだけだ。悔しかったら努力しろ」
 ハーデスは発破をかけたつもりだったが、男はむしろ機嫌が良くなっていた。十四人委員会の座につくような傑物に褒められたのだ。魔法については貶されっぱなしではあるがもとより期待していない分野である。そんな男の内心を見抜いた“エメトセルク”は氷のようなまなざしで彼を見下した。
「……君が教えてくれるなら」
 妥協案を提示した男に対し「そんな暇はない」と言いかけたハーデスだったが、口を噤んだ。乗りかかった舟であるのは確かだし、なにより断られることを見越して当てつけのようなエーテルが織られていた。
「君には視えるんだろう」と笑いながら、よくもまあそこまでめちゃくちゃに紡げるものだと逆に感心したくなるほど、汚らしい魔術構築を見せつけられて、ハーデスはため息を吐いた。
「はああ……わかったわかった、仕方ないな……また今度見てやるから、それをやめろ」
 美しい輝きが台無しだ。こんなものを見せられ続けるのなら失明したほうがマシかもしれない。ハーデスのしぶしぶとした承諾に、男はにっこりと笑って粗雑なエーテルを霧散させた。
 まあ別段自分ばかりがついていなくとも、共通の友人であるヒュトロダエウスにも協力してもらえばいいだろう、とハーデスは計算した。視るのがあいつの仕事だ。貸しもある。
 尻をついたままの男に手を貸し、起こしてやると、にわかに慌ただしい足音がやってきた。
「緊急事態です」
 創造物管理局から謎の創造生命体があふれている。
 告げられた事象を理解するのに少々時間を要した。いや実際に目にするまでは理解できなかったといってもいいだろう。
 わくわくと目を輝かせている隣人に半ば引っ張られながら、ハーデスはげっそりと肩を落としていた。今日はもう充分働いたというのに、そもそもあそこにはヒュトロダエウスがいるのだから、わざわざ私が足を運ぶ必要などないだろう、と。
 だが彼らのある種の余裕は、創造物管理局へたどり着く頃には消え失せていた。
 星々と街灯に照らされた夜の市街に悲鳴がひびきわたる。
 逃げ惑う人々を追う、人の形をした異形。骨と皮だけのしなびた肉体、落ち窪んだ眼孔、それでいて生々しく体液をこぼす傷だらけの皮膚。その異形は嗄れた声で叫びながら、逃げ遅れた市民のローブを掴み、その身ごと倒れこむ。
 男は咄嗟に飛び出した。その手に光の剣を創造し異形をなぎはらうまでの一連は、まるで閃光が走ったかのような一瞬の出来事だった。弾き飛ばされた異形体は両腕を失っていたが、なおも這いずり、おおおおお、と身の毛のよだつような咆哮をあげた。その大口めがけて放たれた火球が彼の身を燃やしつくし、ようやく一体の異形が葬られる。
「何があった!」
 腰を抜かしている局員であろう者にハーデスが駆け寄った。
「管理局の地下から、あれと同じものがつぎつぎと……今は局長が押しとどめています。どうか助力を!」
 その間も屍体の群れは襲ってくる。
「助けてくれ!」市民のひとりが複数の異形に取り囲まれていく。剣閃がそれらを蹴散らしたときには、のみこまれた者はすでに跡形もなく消えていた。
「なんて、ことだ」
 絶望の声が漏れた。四肢を切断し、さらには首を斬り落としても異形の動きはとまらなかった。ちぎれた体の部位がにじり寄ってくるのを、男は剣を構えながら後ずさりした。どうすればいい? 思案を巡らせた最中、下半身を失った異形が飛びかかった。ヒトのものではない鋭い牙が目前にせまる。
 ごお、と音がして異形が炎に巻かれた。夜闇が引き裂かれるような煌々とした火柱のあとには、灰さえ残っていなかった。
「奴らは火に弱い!」
 反響するような声の響きに振り向くと、冥界の影をまとったハーデスがそびえたっていた。ともすれば異形の王たる風格をも備えた姿をみて、あたりの市民がこんな時だというのにのんきな歓声をあげた。彼の身にまとわりつくエーテルは、“目”をもたない者にも感じ取れるほどの質量の渦を巻いていた。冥王が手をふりかざすと、創造物管理局へとつながる炎の道がうまれた。
「行け、そして私の魔法を思い出せ。集中してエーテルを紡ぐんだ。決して急ぐなよ」
 ハーデスはまるで指揮をするように元素魔法を操った。雷が落ちて火を生み、吹きあれる風が火を燃え盛らせた。魔術の調和ともいうべき偉業だった。エーテルを視ることができる者なら、その真の美しさを味わうことができたに違いない。
 男はほんの一瞬、見惚れていたが、はっとして頷き、炎の道を駆けていった。
 異形の根源であるはずの創造物管理局は、不気味な静けさと暗闇につつまれていた。男は指先に火をともしたが、照らし出せたのはせいぜい数歩先までだった。片手には変わらずお守りのように剣を握りしめながら、ゆっくりと床を踏みしめる。エーテルの刃は大して役には立たなかったが、それでも彼にとっては使い慣れた武器で、携えているだけで心が落ち着いた。
 奇しくも今宵は死者が還ってくると言い伝わる日である。古いおとぎ話のようなものだが、さきほどの光景は、冥界の底から死者が蘇ってきたことを信じるに値する悪夢そのものだった。だがあれらはあくまで創造物であるらしい。魂が存在しているなら、ハーデスの目に視えたはずだ。それに警報を遣わしたヒュトロダエウスにも。
 耳をすませると、闇の奥から、ドン、ドン、となにかを叩きつけるような音がしていた。剣の柄を握る手が汗ばんでいた。男は深呼吸を繰り返しながら、音のなる方へ気配を殺して近づいていった。そこにはうっすらと開いた扉が待ち受けていた。冷ややかな風が通り抜けて、指先の火が心許なげにちりついた。
 緊張で凍りついてしまいそうな体を叱咤して、男はいきおいよく扉を蹴り開けた。
「……ヒュトロダエウス?」
 ちらりとローブの端のようなものが、視界のはしに映った。
 たったひとり残っているはずの友を呼ぶが、返事はない。
 指先の灯火をかざして先を見通すと、白い影が横切ったところから、地下への階段が続いていた。せまく螺旋を描く石の段の向こうから、ドン、ドン、と音が響いている。男は慎重に階段を下った。ひとつ足を進めるたびに音はしだいに大きくなっていった。静寂のなかに響く音が男の心臓の鼓動のようでもあった。
 あれはヒュトロダエウスだったのか? それにしては小さな子供のようでもあった。ならば使い魔のようなものだろうか。彼は無事なのか?
 ——小さな声が聞こえたような気がした。それは聞こえたというにはあまりにもか細く、現実味のない幻聴のようでもあった。
 脳裏によぎった不安を振り払うように男は剣を握りなおした。並外れた魔道士であるハーデスも一目を置き、十四人委員会に推薦さえされた。彼は間違いなく指折りの魔道士のひとりである……その実力のすべてを知るわけではないとしても。なんでもそつなくこなす男であるがゆえに、彼の本気を見たものはおそらく誰もいない。
 最下層にたどりつくと、叩きつけるような音の正体が、大きな扉を振動させるものであることがはっきりした。魔法的な封印を施されているようで、多少の力ではびくともしないようだった。
「ヒュトロダエウス! そこにいるのか!」
 音がぴたりと止んだ。完全な静寂に耳鳴りがした。扉の向こうにいくつもの気配を感じた。それらすべてがこちらを“視て”いるような感覚も。
「どうしてキミがここに?」
 思ったよりもずっと近くからかけられた声に、男は飛び上がった。堰を切ったようにあふれだした恐怖心から咄嗟に剣をふりかざす——。
「おっと。危ないなあ」気の抜けた言葉とともに剣閃は空ぶり、隣にぼんやりと浮かんだ白い影が、見知った仮面だということにようやく気がついた。
「ヒュ、ヒュ、ヒュトロダエウス!」
「やあ、ヒュヒュヒュトロダエウスだよ……フフ、キミのこの狼狽っぷり、彼にも見せてやりたかったなあ」
「そんな……場合じゃないだろう! いったい何があったんだい?」
「古いイデアの暴走……と言ったらいいかな。局員のひとりが取り違えてしまってね。どんどん生まれてくるから、この扉の向こうにイデアごと閉じ込めておいたんだけど……」
 ヒュトロダエウスが静まり返った扉をノックしようとする。彼の手が触れるよりも先に、ドン! と大きな返事とともに再びはげしく体当たりをするような音がはじまった。
「……うーん、そろそろ限界かもしれない」
 顎に手をやりながらヒュトロダエウスは冷静すぎる見解を述べた。
「どう……すればいい?」
「お手上げ、かな」
 ヒュトロダエウスは肩をすくめ、おどけるように言ったが、男の真剣なまなざしをみて「キミがどうにもできないならね」と付け加えた。
「ワタシと一緒にこの防衛線の砦となるかい?」
 男は望むところだとうなずいた。その目からはもう恐怖は消えていた。
 ヒュトロダエウスの背後にある扉はいよいよ不穏な軋みを発するようになり、決壊が近いことを示していた。
「キミのその剣を使おう」
 物理的な斬撃など意味をなさないことは、彼が一番よく知っているだろうに、いったいどうするというのか。
 男が疑問を口にする前に、ヒュトロダエウスは彼と己の手を重ねた。そして淡い光をはなつエーテルの剣を天に掲げるよう持ち上げた。男は触れ合っている肌から魔力がそそがれているのを感じ取った。その魔力は剣先をめざすように流れこんで、神経が剣と結びつき一体化するようであった。
 男はほとんど感覚的に行うべきことを理解した。ヒュトロダエウスのエーテルと螺旋を描くように剣を魔力でつつみこむと、創造剣は再構成され、燃え盛る剣と化した。さらにゆっくりと慎重に魔力を練り上げると、かがやきは一層強くなり、まばゆく白い光が太陽のようにあたりを照らしだした。魔力が束ねられるにつれて重くなる剣をもう片手が支える。かわりにヒュトロダエウスが手を離しても、光は解けずに質量を増し続けていた。
 ——圧巻だ。ヒュトロダエウスはいつか友に言ったものと同じ感想を抱いた。なおも紡がれている魔力は、放っておけばあたり一面を焼失させかねない威力を秘めていた。
「準備はいいかい?」
 ヒュトロダエウスが扉に手をかけ声をかける。
「ああ……いつでもいい!」
 剣を掲げる両手が震えていた。生成される炎を圧縮し密度を高める魔力構築が、かつてないほどの精度と速度で編まれていた。術者に影響を及ぼさないように操作されているにもかかわらず、それでも抑えきれない焔の熱を頭上に感じる。
 これ以上は危険だ、と、本能が警鐘をならしたとき、同時に目の前の扉の封印がとかれ、打ち破られた闇から異形がなだれのようにあふれだした。
「あああああッ!」
 全力で振り下ろした魔法剣から閃火が走る。
 迸る炎が千波万波となり異形どもをのみこんだ。
 さらにはヒュトロダエウスが構築した魔法障壁『マバリア』が火勢をそのまま閉じ込め、内部は火の海と化し、すべてを跡形もなく焼失させた。
 魔力効率を高めるとはこういうことなのか——男は愕然とした。魔力の余波が、フードも仮面も吹き飛ばしていた。剣の構築は高等魔法『フレア』がもとになっているとはいえ、あとは圧縮して放つだけの単純な構成のはずが威力が桁違いだった。同じ『ファイア』でも素人が使うものと熟練の魔道士が使うそれではまったく違うが、そんな次元の話ではない。
「安心している暇はないよ。……まだ山ほどいる」
 ヒュトロダエウスの言う通り、扉のさらに奥深くから第二陣が押し寄せてきていた。先ほどのような大規模のフレア剣は連続では放てない——そこまでの魔法練度が男にはなかった。それでもと炎の剣を創造し構えた男の前に、ヒュトロダエウスが庇うように立ちはだかった。
「ここはワタシが時間を稼ぐから、キミはハーデスと合流するんだ」
 そう言ってヒュトロダエウスが両手を広げると、破られた扉が創造魔法により修復されていく。ほとんど間一髪といったところで異形の群は扉に阻まれた。かろうじて滑り抜けようとした腕だけが、挟み込まれて切断され、落ちた地面でのたうちまわったが、ヒュトロダエウスが踏みつけると萎びた手はぐったりとして動きを止めた。
「残しては行けない……!」
 男はもう一度、炎に魔力を込めようとしたが、ヒュトロダエウスは首を横に振った。
「あれは無尽蔵にわいてくるらしい。止める手立ては、イデアそのものを直接破壊するしかないみたいだ。そのためには……キミとハーデスの力が必要なんだよ」
 再封印された扉がみしみしと音を立てる。
「ワタシは局長だからね、ここを守らないと」
 ヒュトロダエウスはいつもの穏やかな微笑を浮かべて続けた。扉へと向けたその手は、魔力を全力で維持しているのか震えていた。
「キミの役目は市民を救うことだ。さあ、行って!」
 男は後ろ髪を引かれる思いで後ずさった。自らが救えず、異形の犠牲になった民を思い出す。肉片ひとつ残らなかった彼とヒュトロダエウスの背中が重なる——。
「ああ、もう、だめだあ……っ!」
 ヒュトロダエウスの結界が破られた。
 押し寄せてくる異形の波に、のみこまれる。
「ヒュトロダエウスっ!」
 思わず駆け寄ろうとした男は『ウォール』に阻まれて、透明な壁に拳を叩きつけた。ヒュトロダエウスは障壁越しに微笑んで対岸の男を指差し、何らかの魔法をかけた。
「キミが戻ってくるまで、待っているよ」
 その言葉が最後だった。ヒュトロダエウスにかけられた魔法は身体を浮かび上がらせ、男を強制的にその場から離脱させた。
 次の瞬間、目の前にあったのは創造物管理局の入り口だった。
 肉体をエーテルに分解し、地脈を通って移動先で再構築される魔法——あらかじめ指定されていた地点に『デジョン』されたのだろう。市街は穏やかな静けさに満ちていて、すでに日常を取り戻しているかのようであった。しかしひと気がない。
「ヒュトロダエウスはどうした?」
「ハーデス……!」
 見知った声に振り向いて男は少しばかり安堵した。そしてすでに形態変化を解いた彼が、市民らしい装い——黒いフードに仮面を——しっかりと身につけているのを見て、すべてが露わになっている自分の姿を思い出し、咄嗟にフードをおろした。仮面も創造しておきたかったが今は羞恥を覚えている場合ではない。
「彼はひとりで地下に残っている。早くイデアを壊さなければ」
 地下への道すがら男は創造物管理局で起きたことを説明した。ハーデスは何か引っかかりを覚えていたが、確証がないためにそれを口にするのはやめて、地上のことを語った。住民の避難はラハブレアにまかせて、外に溢れ出ていた異形はあらかた片付けたこと。後を追って管理局へ行こうとしたところ、魔法の気配を感じて、デジョンにより男が現れたこと。
「あいつがそう簡単に後れをとるとは思えんが……」
 地下への急勾配を駆け下りながら、ハーデスはつぶやいた。彼が指先ひとつ鳴らすだけで、すべての燈には火が宿り、闇につつまれていた管理局はもとの明るさを取り戻していた。しかし、ひとのざわめきもなくしんとした空間は、かえって不気味さを増したようでもあった。ともかく異形は一個たりとも地下からあがってきてはいないようだ。ヒュトロダエウスが未だ障壁の向こうで戦いつづけているのか……。
 螺旋の向こうでひらりとまたローブの端がよぎった。最深部まで案内するように。
「何も、ない?」
 一本道を間違えるはずはない。しかし最深部では、なにもかも夢のあとであるかのように、破られたはずの大仰な扉は健在で、異形の指のかけらもなく、当然、ヒュトロダエウスの姿もなかった。
「……あの扉はなんだ? 向こう側がなにも視えん。魔法によって隠蔽されている。あれを開けろ!」
 ハーデスは確信を得た声で言った。男はなだれこんできた異形を思い出し、少し躊躇ったものの、言う通りに扉に手をかけた。それは見た目に似合わず、ほんの少し力をこめるだけで簡単にぎいと音を立てて開きはじめた。
 二、三歩、後ずさる。男は炎の剣を創造して敵を待ち構えた。扉の先は暗闇で、こちら側からの光は吸収されたようになにも届かない。
「その空間を断ち切れ。幻影魔法だ」
 ハーデスに言われたとおり、男は虚空にむかって剣を振りかざした。
 切り裂かれるようにして現れたのは、明るく、温かで、賑やかなパーティ会場だった——。
 わああああと歓声が上がり、拍手とともにクラッカーがいくつか打ち鳴らされ、シャンパンの飛沫が上がる。
「……は?」
 ふたりは同時にあっけにとられた声をあげた。
「やあやあ、ふたりとも、おつかれさま」
 傍からひょこっと現れたヒュトロダエウスに、ずいと差し出されたのは、血のように紅いワインだった。
 市民たちはすでに何事もなかったかのように、かぼちゃのケーキを取り分けたり、香ばしい香りのする肉にかぶりついたり、湯気立つスープをゆっくりと味わったりしながら、なごやかに談笑していた。ただし巨大な檻の中で。
 ハーデスはわなわなと震えだした。
「すべて……お前の仕業だな……?」
 ヒュトロダエウスも同じように震えていた。しかしこちらは笑いによるものだった。口元を押さえてもついに堪えきれず「フフ、フフフフ……ッ」と声を漏らす。
「ま、待て、ハーデス!」
 男はとっさに怒りに燃えるハーデスを羽交い締めにしたが、役に立つとは思えなかった。今にも冥界から力をよびおこして、あたりをめちゃくちゃにしてしまいそうだと思ったのは気のせいではなかっただろう。ぎりぎりのところで彼をつなぎとめているのは、善き市民であろうとする理性と、“エメトセルク”としての立場だけだ。
「創造物管理局主催のイベントだよ。面白いイデアが持ち込まれたのだけど、登録には至らない……けれど面白いから管理局の制御のもとでどうにか使えないかと思ってね、十四人委員会にも協力してもらって開催されたんだ。キミたちには、街を救うヒーローの役割になってもらうつもりだったし、せっかくだから秘密にしておいたんだ。楽しかっただろう?」
 ヒュトロダエウスは火に油をそそぐように言葉を続ける。勘弁してくれ、と男は冷や汗をかいた。だがハーデスは羽交い締めをしている男を振りほどくと、ヒュトロダエウスの手にあるワインを奪い取って一息のうちに飲みほした。
「はあ……道理で……他の委員がほとんど誰も事態の解決に動かなかったわけだ……」
 ハーデスはさらにもうひとつのワインもやけくそに奪った。
「ちょ、それは、僕の……」男の制止もむなしくグラスは傾けられ、赤い液体はハーデスの口の中へ流れ込んでいった。
「っ……はあ……私がどれだけこき使われたと思っている?」
 空になったグラスを振りながらハーデスが愚痴る。
「……僕だってかつてない規模の魔法を使ったり、大変だったんだぞ!」
「いやあ、あれはとてつもなかったよ。『マバリア』で抑え込まなかったら、種が明かされるどころか、ここがまるごと焼失するところだった」
 それを聞いたハーデスの表情はどう見ても「燃えてしまえ」と言っているようだったが、ヒュトロダエウスはどこ吹く風だ。
「襲われた市民たちは……?」
「捕まったひとは、あの檻の中に転移する仕組みだよ。他のひとは今頃アカデミアのほうの会場にいるはずだ」
「要するに、全員に騙されていたわけか」
 ヒュトロダエウスは「まあまあ飲んで」とハーデスのグラスにワインを生成し注ぎこんだ。
「本当はもっと早く明かすつもりだったのだけれど……キミはそれはもう鬼気迫った暴れ方をするし、彼はこれ以上ないほど真剣だったし……怖がってるところが面白くてね、フフ、いやほんとうに、キミにも見せてあげたかったよ。フフ……ッ」
「それは……っ、ヒュトロダエウスの演出が過剰すぎるせいだ。子供のような使い魔まで創造して。まるで異界に迷い込んでしまったような怖さだった!」
「……使い魔?」
 ヒュトロダエウスは不思議そうに小首を傾げた。
「白いローブを身につけた……」
 まさかこの期に及んでまだ謀るつもりか、と、男は詰め寄るが、ヒュトロダエウスは困惑するばかりだった。しかし彼の冗談と本音を見分けるのはなかなか難しいことであったので、かぶりを振って、「君も見ただろう?」とハーデスを振り返る。実際に一度ならず目にしたのだし、特別な目をもつふたりに視えないはずがない。
「……なんだそれは?」
 ハーデスはわけがわからないといった様子で返した。
 呆然と立ち尽くした男の耳に、かすかな笑い声がひびく。
 ——良い夜を。
 一陣の風が背筋をなでていった。
 それから男はしばらく、エリディブスの白いローブを見かけるたびに怯えるようになったという。


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