Pax Amaurot

back/next

 気持ちの良い日差しが降りそそぐ昼下がり。
 エメトセルクという座名もなじんだ頃合いの男は、久しぶりに官庁街からはなれて、市街地の公園に訪れていた。
 そこは何代目かのハルマルトが創造した、自然豊かで広大な、所謂、昼寝にぴったりの場所であった。家族連れも多いが、エメトセルクと同じように、休日を穏やかに過ごそうと訪れた市民もいる。
 芝生の匂いを感じながら横たわるのも悪くないが、エメトセルクのお気に入りは、特別大きく成長した樹木の、ひとりふたり乗った程度では、びくともしない太い枝に身を預けることだった。
 ぬるくもなく涼しすぎない風に揺れる、葉のさざめきに耳を傾けながら、休日の惰眠を貪っていると、ゆったりとした足取りが、ちょうどエメトセルクの真下で立ち止まった。
「キミも、好きだねえ……」
 枝葉に隠れた旧来の友人を、ヒュトロダエウスが見上げて言った。
 この男にかかれば、どんなところに隠れても無駄である。視えすぎるほどに視える“眼”。エメトセルクとて同じような眼を持ち合わせているものの、本質を視抜くことにかけてはこの男が上を行く。
「…………何の用だ」
「フフ、まるでまた厄介ごとを持ってきたのかって口ぶりだ。用がなくたって友人を見かけたら声をかけるものだろう?」
 そう言ってから「いや、」とヒュトロダエウスは考えるように顎に手を当てた。
「……キミの場合は、用がないと自分からは話しかけてこないんだったね。そんなキミを、ワタシやあの人が引き留めるのが、いつもの流れだ」
 エメトセルクは目を瞑ったまま、言葉を返さなかった。
 そんな友人の態度を気にする素振りも見せず、ヒュトロダエウスはおもむろに、「よっ、と」……勢いをつけて樹の幹にしがみついた。黒いローブに隠されていた白い腕が露出し、木洩れ陽をまばゆく反射した。
 大きく広げた掌で樹皮をしっかりとつかみ、樹のうろに足をかけて、いちばん低いところにある枝根に腕を引っかける。そこで、ふう、とひと息ついて、「おおい」とエメトセルクを呼びあげた。
「何をしている?」
 無関心を装っていたエメトセルクも、これには驚いて木下を覗きこんだ。
 はるか下の枝に乗り上げたヒュトロダエウスが、やっと顔を見せた友へむかって手を振った。
「あの人の、真似」
 ヒュトロダエウスは、木登りの際にはローブがものすごく邪魔であることに気がついて、腕をまくり、裾を縛り上げながら答えた。
 ゆったりとした装束に隠されていた体型があらわになると、彼の手脚はひょろりと長く、それでいて何気なく鍛えられている。
 それを見たエメトセルクはなんとなく気に食わなくなって、覗きこんでいた頭を引っ込め、昼寝の続きを決め込むことにした。
 準備を終えたヒュトロダエウスは、よしと気合を入れ、木登りの続きに取りかかった。ゴールはまだまだ先である。かつて友が披露してくれたときの情景を思い浮かべながら、見よう見まねで登ってゆく。
 何もしなければちょうどいい気温ではあったが、身体を動かせば汗が滲んだ。ひさしく味わうことのなかった感触だった。少しの不快さと、風に吹かれたときの爽快感。今も海向こうにいるのであろう、あの人の姿が思い起こされる。
 フィールドワークが大好きな彼は、今も海向こうでこうして体を動かし、いきいきと冒険しているのだろうか。
 ふと、以前に“覗き視”をしたときの光景を思い出す。
「ッ……フフッ……フ、フ…………っ、!」
 思い出し笑いに気を取られて、ヒュトロダエウスは足を踏みはずした。あわてて枝をつかんだ手がずりっと汗で滑り、指先はむなしく空をかいて浮遊感に襲われる。
 ——ああ、落ちるなあ、と、他人事のように覚悟したヒュトロダエウスだったが、ぱちん、と音がなって、吹いた風が体をつつみこみ、気づけば掴もうとしていた枝の上に降ろされていた。
「はあああ……そんなところまであいつの真似をするんじゃあない」
 エメトセルクが実にうんざりした様子で、枝葉の奥から、ヒュトロダエウスを見下ろしていた。
「ありがとう、エメトセルク。ヒヤッとさせてしまったかな?」
 エメトセルクはふたたびため息をついて、「もう降りろ」とだけ口にした。
 体が勝手に動いて助けてしまったが、ヒュトロダエウスならば地面に衝突する前にどうとでも対処できたはずだった。これは癖だ。原因である男が目に浮かんで、眉間の皺がさらに深くなる。
「うぅん——でも、せっかくここまで登ったからね。最後まで頑張るよ」
「……勝手にしろ。もう助けんぞ」
 ヒュトロダエウスは「もう大丈夫さ」となにゆえか自信たっぷりに返して、手汗をローブで拭い、もう一度、樹木に取り付いた。
 その言葉は嘘でも意地でもなく、先ほどにくらべて動きがはるかに滑らかで、長い手脚を生かしてひょいひょいと身軽に枝から枝へ移ってゆく。まれにローブが小枝にひっかかっても、それはそれは豪快にビリリと破けるがまま手を伸ばす。
 もっともほつれなど後から再創造すればいい話だ。創造物管理局の局長なのだから、あらゆるイデアは彼の手中にあるといっても過言ではない——。
 こんな遊びに興じているのが、そのたいそうな肩書きの持ち主であるということに、エメトセルクはため息を禁じ得なかったが。
「……そもそもなぜここを登る? 登るにちょうどいい樹なんぞ、そこらに山ほどあるだろう」
「はあ、はあ——うん、今ちょっと、集中してるから」
 思いの外、すぐそばから聞こえた声に、エメトセルクはぎょっとして腰を浮かせた。少し目を離しているうちに、ヒュトロダエウスはもうほとんど樹上の友人に近づいていたのだ。
「やあ。なかなか険しい道のりだったよ……って」
 ようやくたどり着いた目的地にもはやエメトセルクの姿はなかった。もっとも、ヒュトロダエウスがぐるりと見渡せば、彼のエーテルはすぐに見つかった。ヒュトロダエウスが懸命に登った樹木の、さらにずっと上方——もう天辺と言っていい場所だ。
「ひどいなあ、キミの友人がこんなにも頑張って登ってきたっていうのに」
「知るか。誰もそんなふうに登って来いとは言っていない」
「フフ、キミの言うとおりだ。それじゃあ、もう少し頑張るとするかな」
 エメトセルクは「まだやるのか」と半ば呆れたように言った。風魔法で飛べばいいものを、わざわざ苦労して登る気が知れなかった。そもそも無駄なことを嫌う性分である。
 対してヒュトロダエウスが演じてみせている“あいつ”は、何がおもしろいのか、自然に生きる有耶無耶の生物と同じ視点でものを見てみたいと、自らの足で地を駆け、創造翼で空を飛ぶ。また海向こうの人々の、異なる価値観に触れることもよく好む。一言で表すならば好奇心の塊。それも一種の知識欲だ。自分には決して真似できない、その行動力に尊敬の念を抱いているのは、まあヒュトロダエウスに限ったことではない。
「ふう……やっぱり、ヒトには向き不向きというものがあると思い知ったよ」
 エメトセルクの座るところよりも、ひとつしたの枝に乗り上げたところで、ヒュトロダエウスは降参するように両手をあげた。
「もっとも、キミほどではないと思うけれど」
 揶揄するような口ぶりに、エメトセルクは片眉を吊り上げたものの、気安い挑発にいちいち腹を立てるほど若気は残っていなかった。
 実際、ヒュトロダエウスが想像以上の身のこなしをみせたのは確かだ(ろくに身体を動かすこともない職務についている割にという思いはなくもないが)。
 試す気もおきないが、いわゆる運動神経というものに関して、彼、いや彼らが優っている可能性を否定する必要はない。なぜならエメトセルクにとっては運動そのものが厭だからだ。
「それにしても——、絶景だ」
 視界をさえぎる枝葉をすこしかきわければ、はるかなるアーモロートの全景を一望できた。“眼”を凝らせば、すぐに地平線の向こうまで行けそうだ。
 悠久なる生命の循環、そのかがやきを自然と眼が追う。
 地脈をたどり、星の流れに身をまかせれば、海の向こうまであっという間だった。
 ひときわ不思議な魂の色はすぐに見つかって、輝きを宿した“あの人”がふと顔を上げる。
「ヒュトロダエウス……?」
(おや。今日はずいぶんと気づかれるのが早い。さては……誰かを待っていたのかな?)
 “彼”も連れてくればよかったかな。
 ヒュトロダエウスは、そんなことを思いながら物質界のほうへ感覚を傾けてみた。木々のざわめきにまぎれて、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。悪戯心がむずっとくすぐられ、ヒュトロダエウスは意識を集中させた。
 ちょうど海向こうの“あの人”が、その掌に金糸雀を創造したところだった。
「やあ。お久しぶり」
 小さな嘴からひびいたのは、いつもの低く落ち着いた声ではなく、やや高めに可愛らしく調整された音声だった。
 これは創造物管理局にかなり昔から登録されているイデアで、遠くにいても会話ができる便利な道具だ。オリジナルは貝と真珠のかたちをしたシンプルなものだが、今はさまざまなデザインや機能を付け足した派生作品がたくさん登録されている。
「イヤーン、覗き見するなんて、えっち!」
 ヒュトロダエウスは噴き出した。
 あわてて口を押さえ、真上で寝ている友人に意識を向ける——だいぶ熟睡しているようだ。
 肩を震わせながら、声を落としてひそひそとささやく。
「ッフ、フフフ……ッ、なにか視られて、困ることでもあるのかい?」
 覗き見、といっても目で見る世界とそれはあまりにも異なる。間接的に読み取れるとしても、地脈の流れから場所を推測したり、誰かが側にいるのか、それともひとりなのかくらいだ。例えばちょうど排泄していたとしてもわからないだろう——おそらく。
「ヒ・ミ・ツ」
 無理のある裏声はそれだけで笑いを誘う。
 存外笑い上戸なヒュトロダエウスは、目尻に浮かんだ涙をぬぐって、どうにか深呼吸で気持ちを落ち着かせた。
「ところで、何かあったのか?」
「いいや。寂しがっている友人のかわりに、少し様子を視に来ただけさ」
 当人が聞けば憤慨してしばらく口も聞いてくれなくなるであろう事を、いけしゃあしゃあと口にする。本質を見通すことができる眼とはいえ、図星を突かれれば、認めたくない事柄ほど反発したくなるのがヒトの常。というのを解らないふりして容赦なく突いてくるのが、このつかみどころを見せない局長殿というもの。
 犠牲になった友に同情を寄せつつ、海向こうの友として金糸雀に言葉を寄せた、
「ちょうど、そろそろ帰る頃合いかと思っていた」
「それなら、ワタシのエーテルを伝ってくればいい。良いものが見られると思うよ」
 役目を終えた金糸雀が、翼を広げ、飛び立った。
 彼らほどではないもののエーテル界に感覚を傾ければ、ヒュトロダエウスの影が立っていて、手を差し伸べている。
 誘われるまま手を重ね、『デジョン』の詠唱を唱えれば、肉体がエーテルに分解され、ヒュトロダエウスに導かれるまま地脈の奔流に流される。はるか遠き大地に在った身も、枷を外せば思い抱く場所へまっさかさま、気づけばヒュトロダエウスを押しつぶしていた。
「なんだってこんな狭いところに……」
 よくよく見ればそこは樹上。スペースが足りなければ座標元に重なってしまうのも致し方ないというものだ。
「というか、ローブがぼろぼろじゃないか……?」
 ヒュトロダエウスは、しぃ、と人差し指を唇にあてて「それよりも」と囁いた。
「上をみてごらん」
 エメトセルクは相も変わらず寝入ったままだ。
 ヒュトロダエウスと、彼に導かれた男はにやりと笑った。
 悪友といっても差し支えないふたりは、そうっと、そうっと、風の元素をまとい、夢見心地の男のもとへ舞い上がった。
「そろそろ起きたほうがいい頃合いだと思うよ、親愛なるエメトセルク」
 ヒュトロダエウスが耳元でそう囁けば、エメトセルクはびくっとしたように身体を跳ねさせ、目を覚ましたようだ。
「おはよう。そして、ただいま」
 寝起きの頭では現状をすぐには理解できなかったらしい。エメトセルクはこれが夢の続きかそうでないのかを確かめるように、ヒュトロダエウスと、本来いないはずの友人とを見比べて——出し抜けに、パチンと指を鳴らした。
 風魔法が解けてヒュトロダエウスと彼に連れられた友人は、「うわ」と同じ能天気な声を上げて墜落する。
 やわらかな落ち葉の山につっこんで、もぞもぞと頭を出せば、はっぱだらけの互いの姿にひとしきり笑いあった。あえて抵抗しなかったのは、まあ共通の友人への信頼の証というものだ。
 このふたりが揃っては、もはや惰眠の続きは叶うまい。
 エメトセルクは諦めて地表に降り立った。
「ご挨拶だなあ、ハーデス」
「ああ、彼は今、その名で呼ぶと口を聞いてくれないんだよ」
「黙れ、ヒュトロダエウス」
 ヒュトロダエウスは「おお、こわいこわい。」と、欠片も思っていないような仕草で肩をすくめた。
 この男は口を開けばすぐにでまかせを言う。というのも、もうひとりの問題児がその冗談を真に受けるのが面白いからだ。
「ええと、……」
 案の定、久方ぶりに会った友人をなんと呼べば良いのか迷い出した彼に、ヒュトロダエウスは、エメトセルクのほうに「さあ、名乗りを上げて」とでも言うように顔を向けた。
 エメトセルクは(まさか、誰も報せなかったというのか)としかめ面をした。きっと局長殿が余計な手を回したに違いない、とも確信した。
「…………エメトセルクの座に、就いた」
「ああ! おめでとう!」
 実にあっさりとした賞賛だった。
 エメトセルクが、まさか、という表情でヒュトロダエウスを振り向くと、肩を震わせ笑いを堪えている。
「っふふ……っはは……っ」
 しまいには目の前の男からも笑いが漏れて、謀られたことはもはや明確だった。
「お前! 知っていただろう!」
「君が真っ先に伝えてくれないのが悪いんだ。これくらいの意趣返し、君が僕にした仕打ちにくらべたら!」
「わざわざ伝えるまでもないだろう? 現にお前はこの通り知っていたわけだ」
「キミ自身の口から報せてくれたほうが嬉しいってことだよ。こんな大事なことを人づてに報されるなんて、よそよそしいと思うのも当然じゃないかい?」
 ヒュトロダエウスが珍しくまじめに苦言を呈すと、新しきエメトセルクは言葉に詰まる他なかった。エメトセルク自身、同じことをされたとして特に気にはしない事柄であった為、ないがしろにしたつもりはないのだが、ヒュトロダエウスの忠言を無視した結果であることには違いない。
 この際、十四人委員会への就任そのものは問題ではない。ただ良き友人として真っ先にその報を受けられなかったことに憂いているということだ。
 ……良き友人?
 否定するように浮かんだ疑問符についてはさておき、エメトセルクは、素直に「すまなかった」と謝った。
「わかればいいんだ。……おめでとう、エメトセルク」
「……わざわざ、賞賛されるようなことでもないが」
 必要性があっただけだ、と、いつだかヒュトロダエウスに言ったように言葉を返す。
 そもそも、最初に推薦されたのはそのヒュトロダエウスなのだ。適材適所とは言うが、仮にこの男が座に就いたならば、口ではなんと言おうと、見事にその役割をこなしてみせるに違いない。エーテルを視る力にとどまらない慧眼を持っているのは確かなのだから。
 座に収まるべきはハーデスだ、と口にした本心の半分は、面倒だったから押し付けたに過ぎないのではないか。エメトセルクは疑いの眼差しを向けた。
「どうしたんだい。ワタシの顔になにかついてるかな?」
「頬が汚れているよ。ほら、ローブもほつれてる」
「ああ、本当だ。ありがとう」
 のんびりとしたやりとりに、あれこれと考えるのもばからしくなったエメトセルクは、厭だ厭だ、とため息をひとつこぼした。
「それじゃ、もう用は済んだな?」
 制止を受ける前に風のエーテルに乗って、樹上に移動する。
 下の方では「せっかく久しぶりに会えたっていうのに」だの「冷たいなあ」だのと好き勝手なことを友人達がわめいていたが、知ったことではない、と、エメトセルクは目を瞑った。
 とはいえこの程度で諦めるような者たちとも思ってはいない。——特に、“あいつ”に関しては。
 あいにくこれまでもこれからも付き合いは長いのだ。
「なるほど、それで君らしくない身だしなみだったのか」
「ちょっとしたパラダイムシフトのつもりで真似をしてみたのだけれど、なかなか楽しかったよ」
「それなら、僕と競争しないか? どちらが先にたどり着けるか。薄情なエメトセルクのもとに」
「いいね。それは面白そうだ」
 ふ、と、エメトセルクはその口元に笑みを浮かべた。
 樹上に登るついでに仕掛けられた、非情なるエメトセルクの創造魔法の罠に、ふたりが悲鳴をあげるまであともう少し。


back/next