君のエーテルを吸いたい

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 こうじゃない。これも違う。これでもない!
 ああ、ここまでうまく創造できないものがあるだろうか?
 僕はただ、師匠のように、美しい幻想生物を顕現させたいだけなのに。
 創造魔法には確固たるイデアが必要なのだ。僕の手の中でうごめいている未完の概念は、光り輝くもの、翼あるもの、温かなものへと、つぎつぎ形を変えてゆく。曖昧なイデアでも創りながらであれば何か良いひらめきを得られると思ったのだが、現実は混迷するばかりだ。
 めまいがする。
 完成には至っていない半端な創造物、さながら子宮にてまどろむような命ではあったが、無機物や純魔法に比べれば、生命体の創造というものは少なくないエーテルを消費する。母が子を産むとき、その身を文字通り削るように、生物の創造というのは、命を削る行為に他ならない。
 ——厳密に言えば、“幻想”生物は、現実の生物よりも単純な構成をしていて、たとえば血液や神経などといったものは存在しない。けれど、僕が求めている“美”は、幻想生物ならではの血を有し、思考し、人類を新たなるステージへと引き上げるような、そんな画期的な存在なのだ。そんな生物は、かの当代ラハブレアでも未踏の概念。ともすれば神の領域にまで踏み入るような行為だが、僕たちの知識欲、好奇心に、禁忌などというつまらない束縛は必要ない。きっとみんなも理解してくれることだろう。
「うっ……」
 視界がぐらぐらと揺れる。エーテルが欠乏する前兆だ。
 この感覚は久しぶりだ……僕は自分でいうのもなんだが、客観的事実として——他人よりも保有魔力が優れている。友であるエメトセルクに言わせてみれば、エーテルだけ膨大でも、効率よく扱えないのであれば意味がないとのことだが、それでもよっぽどのことがない限り、いくら魔法を行使しても平気なのだが、生物を創造し続けるのは、僕の多量の内蔵魔力といえども荷が重かったらしい。
 けれど、僕はイメージをつかみかけていた。
 まるで真円の創造を試みるような、無謀な挑戦ではあったが、あと少し、もう少しで、イデアがつかめそうなのだ……!
「あ、は、そ、んな……ッ!」
 今まさに生まれ出ずる、という瞬間に、魔力経絡からの供給が遮断された。
 僕の手の中にあった創造生物は形創られる前にかき消えようとしていた。そんなことは許されない————。
 魔力経絡を無理やりこじあけよう。万物はエーテルによって構成されているのだし、師匠の論文にも書いてあった。理論上は可能なはずだ。つまり自身の魂、および、肉体をエーテルに変換し、不足分を補うのだ。
 もちろん、僕は師匠のもと研究に身を捧げているとはいえ、まだまだ創造したいものがある。いずれ、命を捧げるにふさわしい、これだ、というイデアを確立したならば、寿命をむかえる前に師匠の理論を実証してみたいものだが。いや、その前に、師匠自身が行なってしまうだろうか? 彼の方は、そうとは思えないくらい壮健で働き者だが、僕が物心つくときにはすでに研究者だったわけで、つまるところお爺さんのはずだからなあ。
 はっ、だめだだめだ、雑念が混じっている!
 創り直しだ。僕が生み出したいのは、……。
 ああ、だめだ……足に、力が……。
「大丈夫……じゃあなさそうだ」
 ヒュトロダエウス。僕は彼に抱えられていた。少しばかり意識を失っていたらしい——、いや、気を抜けば、またすぐにブラックアウトしてしまいそうな——ん、ヒュトロダエウスが何かを言っているが、もう音も遠のいていてわからない。視界は。……? これは、エーテルを感じ取っているだけの光景か。——はっ、エーテルが、生命活動に必要なエーテルが枯渇しているのか……!
「ヒュ、ト、……エー……テル、を……」
 口元に冷たいなにかが触れた。口の端からなにかこぼれていく感覚もする。
 ヒュトロダエウスがエーテルを注いでくれているのか……の、飲まないと……死ぬ……。
「おぅ、えっ! げほっ!」
 な、なんだこれは‼︎‼︎‼︎‼︎
 死ぬほど……不味いッ‼︎‼︎‼︎‼︎
「おお、よかった。気がついたね」
 実にのんびりとしたヒュトロダエウスの声が聞こえる……。
 おぇっ、……何か喋ろうとすると胃の残留物をぶちまけてしまいそうになる。聴力が戻ったということは、少なくともエーテルに類するものではあったはずだが、この世のものとは思えない味だった……一体なんだったのだ……。
「いずれこういうことになるんじゃないかと思って、“彼”のかわりに見守っていたのは正解だったみたいだ」
「ぅ、ぅ、……さっきのは、一体……」
「? ただのエーテルだよ。ワタシが創造魔法で作ったものだけれど、なかなか美味しかっただろう?」
 そ、そんなばかな……あの、甘いような、苦いような、酸っぱいような、なんというか、舌に触れた瞬間に身体が拒絶反応を起こすような、味覚という機能がぶち壊されるような代物がおいしい、だって?
 しかし、人をからかうことが趣味のヒュトロダエウスとはいえ、その口調はいたって真面目だった。これがふざけているのであれば、すでにフフフフと笑っているはずである。つまりヒュトロダエウスにはアレがほんとうに美味しいと感じるのだろう…………今後、ヒュトロダエウスが創った飲食物は口に入れないようにしよう。絶対に……トドメをさされるところだった……。
「………………う、う」
 ああ、……また意識が……。
 ショック療法的に意識を覚醒させられたとはいえ、エーテルはほとんど吐き出してしまって効果は薄い。僕を見下ろすヒュトロダエウスがぼやけてぐらぐらしている。
「おや、まだエーテルが足りないのかい。もう一本あるけれど……」
「い……いや、もう、いい……っ」
 もう一口たりともヒュトロダエウス作のエーテルは飲みたくないッ‼︎
「君の、魔力を……少し、もらう……ッ」
 とんだ味覚崩壊物質ではあったが、おかげで魔法を構築できる程度には意識が回復した。
 少々、仕返しの意を込め、ヒュトロダエウスの腕を強く握り、彼の身をめぐる魔力経絡に干渉した。
 他人のエーテルをむやみに体内に取り込むと、色々と問題が生じるので、調整の必要がある。イメージとしては、食糧を摂取する際に咀嚼するよように、魔力性質を自分のものに近づける——。
 ああ……まるで凪のようなエーテルだ。陰性寄りの、無味に近くて、癖がなくて、きっとどんな魔力にもなじみやすい。この魔力の持ち主が“アレ”を創ったなど信じられない。
「この勢い、少しではないような気がするんだけど、ワタシの、気のせい、か……な……」
 めまいに襲われたのだろう、ヒュトロダエウスはゆらゆら揺れながら倒れた。おかしいな。僕としては本当に少しのつもりだったのだが。心なしかやつれて青い顔をしているので、彼のゲキマズエーテルを口に突っ込んでおくとしよう。彼にとってはゲキウマなのだから問題ない。
 それにしても、思ったより補給できなかったせいで、まだ足元がふらついている……めまいも治らない……うっぷ、いや、これは異物を飲み込んだ後遺症かもしれない。揺れる視界も気持ち悪い、エーテルを視るしか……くっ魔力が……。
「ぶっ、」
 痛い。尻餅をついた。何かにぶつかったぞ……。
「あ、あなたは! だ、大丈夫ですか……?」
 おっと、同僚の研究員だったか、ちょうどいい。彼からも少しだけ魔力を頂戴するとしよう。
 優しく助け起こしてくれた手を掴んで、魔力を吸い取る。
「あの……っ⁉︎」
 ん? 倒れてしまった……まだ吸い始めたばかりだというのに。
 はあ、全然足りない、マナが足りない……だれか、だれかいないのか……あ、いた。君のエーテルも頂こう。なぜ皆すぐ倒れてしまうのだろうか。お、あちらにも何人かいるな。逃げないでくれよ。ちょっとだけエーテルを分けてほしいだけだ。ああ、つかまえるのについ魔力を消費してしまった。
 はっ…………あれは……あの、ひときわ燃え盛るようなエーテルの持ち主は……?
「君か。一体どうしたのかね? 魔力を著しく消耗しているようだが——⁉︎」
「ラ、ラハブレア……!」
 闇の中の光明とは、まさにこのことを言うに違いない! ほとんど倒れこむような形になったが、どうにか師匠にしがみつくことに成功——、
「う、おっ」
 ——したものの、そのままの勢いで倒れてしまった。ううむ、申し訳ないことをしてしまった。まあ緊急事態なので許してくれるだろう。とりあえず……。
「いただきます」
「待てっ、何を……く……っ!」
 文字通り、首根っこをつかんで、術式を構築する。少々手荒だが、ちょうどつかみやすい身体の部位がそこだったので仕方ない。
 頸動脈の鼓動がぴくぴくと皮膚に伝わるとともに、流れ込んでくる魔力に熱を感じる。ヒュトロダエウスとは対照的なエーテルで、なんとも濃くて元気のわいてくる味。端的にいうならば——そう、これこそが美味いというイデアだ。やや癖はあるものの、僕は好きな味だ。
「、っ……く、はっ……」
 しかし、先ほどは、そんなに勢いをつけたつもりはないんだけども、師匠はどうも筋力が足りないと見える。魔力の性質とは裏腹に、研究ばかりしているせいか、それとも年齢的に足腰が弱っているのか。暴れる体を押さえつけるのも、実に容易だ。教えを乞うばかりではなく、たまには模擬戦の相手でもしてもらって、身体を鍛えてもらうのがいいかもしれない。私は頭脳派なのだとか何だとか言って、いつもすぐ逃げられてしまうが、これからも元気でいてほしいからね。
「こ、のっ……いつまで吸っている⁉︎」
「ぐぇほっ」
 う、う……なにかの魔法で弾き飛ばされた……いつのまに詠唱していたんだ……。
 師匠はズレた仮面を直しながら、倒れ伏した僕を見下ろして……その手には、……はっ、エーテルロープ⁉
「しばらくそこで反省していたまえ」
 ぐるぐる巻きにされた僕は床に放置されていた。
 多少は回復したとはいえ、ラハブレア製エーテルロープから逃れるには到底足りない魔力量だ。這いずって移動して誰かに助けを求めるしかない……なんだか懐かしいなあ、昔はよくやんちゃしてはこうして縛り上げられたっけ。いつからだろうか、そんなこともなくなったのは。ううん——そういえば、ロープを力ずくで引きちぎることにはじめて成功してから、誰も僕を縛ろうとしなくなった気がする。
「はあ、はあ、疲れるなあ、これ……」
 途中でまた研究員のひとりとすれ違ったのだが、僕を見た瞬間、ぎょっとしたように逃げられてしまった。なぜだ。脱走した創造生物だとでも思われたのだろうか。
「ははぁ……なかなか良い眺めじゃないか」
「ハー……、いや、エメトセルク!」
 わざわざアカデミアまで足を運んでくるとは珍しい。果たして君は天使か悪魔か。
 ……無様にも地面を這う生物と化した僕を見下ろして嗤う姿は、どうみても悪魔だが。
「研究員が青い顔をしてアカデミアから飛び出してきたぞ。いわく、エーテルを吸い尽くす獣が脱走した恐れがあるとかなんとか……で、その正体がお前というわけか」
「失敬だな。少しばかり魔力を分けてもらっただけだ。吸い尽くすなんて、人聞きの悪い」
 その時、遠くの方から、師匠と研究員たちの切羽詰まった声が聞こえてきた——。
「ど、どうしてこんなことに……」
「早くエーテルを飲ませたまえ!」
 ……おそるおそる、エメトセルクを見上げると、深い、深い、それはもう大海溝のごとき深さでため息を吐かれた。
「いや、その、誤解しないでくれ、エメトセルク。僕とて無意味にそんなことをしたわけではない。僕は僕で必死だったのだ。本当にあやうく死にかけるところで……」
 ああ……仮面に隠れていてもわかる。ハーデスの表情は間違いなくこう言っている。「どうせ自業自得だろう」と。否定はしない。たしかに僕は魔力を使いすぎて自爆しただけだ。でも言い訳くらいさせてほしい。僕は滅多なことでは魔力切れなど起こさないのだ。魔力効率を考えろと何度も何度も言われてきたが、そんな面倒なことをしなくても今までは尽きたりしなかったので、今回のことは完全に想定外なのだ。
 え? 自分の残存魔力くらい意識しなくても把握できるだろうって? いや、それは、まあ、もう少しでイメージを掴めそうだったから止めたくなかったというか。
「……悪かった。僕が悪かったんだ。とても反省している。だからお願いだ、これを解いてくれ。もう這いずり回るのは疲れたんだ」
 この気持ちに嘘偽りはない。すると簀巻きにされてうねうねするしかない僕の姿に、多少は同情的になってくれたのか、ハーデスは厭そうにしながらもしゃがみこんで、僕を拘束しているエーテルロープを検分しはじめた。
「……このロープ、ラハブレアが創ったものか。しかも相当強固に縛り上げているときた」
「でも君なら解けるだろう?」
「あー……残念ながら、無理だな。ま、そのまま大人しくしていれば、いずれ解いてもらえるんじゃないか?」
 なんて奴だ‼︎ 僕にはわかるぞ、彼に解けないはずがないのだ。ただ面倒くさいから厭だと思っているだけだ‼︎ 
「ではな。頑張りたまえよ」
「待ってくれ! 置いてかないでくれーっ‼︎」
 手を振り振り、去っていく我が友の背に叫ぶも、その非情なる歩みは止められない。僕は這って移動することに長けた身体構造はしていないので、一生懸命うごうご追いかけても、彼の長い脚に追いつくことは不可能だ。
 こうなったら……自力で解くしかない。そのためにはエーテルが必要だ。目の前の男から喰らってやるしかない!
「ぐっは!」
 僕は飛んだ。
 つまり、単純に魔力を爆発させ、その慣性を利用してハーデスの背中に頭突きした。ぽきっと嫌な音がしたが、深く考えないことにした。
 完全に不意を突かれた形となって、彼は両膝をついてなにやらぷるぷると震えているが、友人を見捨てるのが悪いのだ。よし、魔力を吸い取って——。
 あ、手が! 拘束されていて使えない!
「やっ、てくれたな……」
 考えてる暇はない!
 僕は——やむをえなかった僕は、詠唱を唱えはじめたハーデスの口を塞いだ。
「ン————⁉︎」
 仮面がぶつかりあって、ごつ、と鳴った。
 師匠の時の反省を活かしたこの作戦、キスしているようにしか見えないところが難点だが、なかなかいいアイディアだと思う。
 ハーデスが硬直している間に魔力を吸い上げてしまわなくては……。
「……⁉︎」
 う、美味い……!
 エーテルバランスが良いのだろうか? それとも魔力の相性なのだろうか?
 彼のエーテルはいちおう魔力変換術式を通って流れてくるが、調整がほとんど必要ないほどなめらかに浸透してゆく。エーテルを直接吸収しても、舌の味蕾に伝わるわけでも、鼻腔に訴えてくるわけでもない。ただ、僕たちが生まれながらに備えている魔力器官が満たされる感覚でしかない。
 それでも、僕は確かに、ハーデスの味わいを感じていた。頑なに閉ざされた唇を舐めて感じた塩味にさえ、頭がくらくらする。
 ——もっと欲しい。
「っ、離れ、ろ!」
 簀巻きにされている僕は、正気に返った彼によって、ごろんとあっさり押し退けられた。
 しかしどうにか目的は果たせている。
 ラハブレアとハーデスの質の高いエーテルによって、ぎりぎりだが必要な魔力が充填された。
「こ、んのおおおお……‼︎」
 めりめり、ぴしっ、ぴしっ——と魔力繊維が解れ、パァン! と、エーテルロープが弾けた。
 はぁ、はぁ、ようやく自由を取り戻したものの、またエーテルを消費してしまった……まあその分は彼から補充すればいい。ドン引きしたように僕を見るハーデスから……。
「良かったじゃないか。私の手助けはもう必要ないな」
 ……と言いながら逃れようとするハーデスだったが、先ほどの頭突きによって、腰でも痛めたらしい。尻をつきながら後ずさりする姿を見下ろす形になって、先ほどとはすっかり立場が逆だ。
 この距離では、魔法を行使するよりも、物理的な接近のほうが遥かに早いということが、ハーデスにもよくわかっているのだろう。無駄な抵抗をしないで穏便に済ませようとするところが、実に彼らしい。
 だけど僕は知ってしまったのだ。
「君のエーテルを吸いたい……」
 まるで麻薬だ。熱に浮かされたように、彼のエーテルを摂取することしか考えられない。これは一種のエーテル酔いなのだろうか。いやエーテルロープを破るのに思ったより消耗して、また枯渇状態に陥っているのかもしれない。
 未だ立ち上がることのできない彼にふらふら近づき、覆い被さろうとして……見えない壁に阻まれた。
「魔法障壁……」
 今のうちに、とばかりにハーデスが痛めた腰に手をあてる。治癒魔法のエーテルの輝きが障壁越しに伝わってくる。……味わいたい。彼のエーテルを喰らいたい。
 ぴし——と、手に触れている壁に亀裂がはしり粉々に砕けた。
「お前、どこにそんな力が……⁉︎」
 逃げようとしたハーデスの肩をつかんで、壁に押し付ける。咄嗟に放たれた無詠唱魔法は僕の身体に触れると、すうと消えてなくなった。うん……やはり、魔法として排出されたものより、直接摂取したほうが純度が高いようだ。こんなものに貴重なエーテルを消費させるわけにはいかない。
 物理的な抵抗をしはじめる彼だったが、その分野では僕のほうが優っている。壁に押さえつけながらひとまず邪魔な仮面を奪うと、信じられないものを見るかのような表情の彼が現れた。
 僕も自分の仮面を外して、そっと唇を寄せる。
「いただきます……」
「っやめ、ンッ……」
 抗議に開いた唇の隙間は、僕にとっては好機でしかなかった。舌をさしこんで、上顎をぬるりと舐め上げる。
「っ痛……」
 かじられた。鉄の味が舌の上にひろがる。
 血に濡れた舌をなめずると、ビリビリとした痛みが走った。
「何の、……つもりだ」
「何、って。ただの魔力補給だ。君のエーテル、すごく美味しいんだよ」
「こ・れ・の、どこが! ただの魔力補給だと言うんだ!」
 すさまじく怒る彼の頬は、わずかに紅が差していて、なんだか胸をぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。やっぱり、彼のエーテルにあてられたのかもしれない。
 僕の身体には今、受けた魔力を変換し吸収する術式が刻まれている。強力な魔法に対してはキャパシティを超えてしまい、術式自体が壊れると予想できるが、この状況であれば、極めて優秀な魔道士であるハーデスといえども、脱出するのは容易ではない。そもそも、こんな密着している状態でそんな魔法を使えば、自爆も甚だしい。
「それなら、ただの“キス”だったら良いのかい?」
「……何をどう解釈すればそうなる?」
「うぅん……言い方が悪かったみたいだ」
 強張った彼の身体にぐっと寄って、耳元に口を寄せる。
 密着した胸から伝わる激しい鼓動は、どんな感情によってもたらされているのだろう。
「君に、キスしたい」
 息と共に吹き込んだ耳元から離れると、彼は絶句していて、ただ目を見開いて、口をぽかんと開けて、僕を見ていた。
 これは察するに、嫌だ、とか、良い、とか考える前に何が起こってるのかわからないって顔だ。
 僕自身も自分が何を言ってるのか、半分くらいわかってないような気がする。強いて言えば、自分の生理的欲求に、ひとつ付け加えたい気分だ。食欲、睡眠欲、性欲、——エーテル欲?
 実体のないはずのエーテルに香りさえ感じるくらい、惹かれている——いや、これは、彼の……ハーデスの匂い、なのか。
 
「君が欲しい……」
 ハーデスという肉体を構成する要素のうちのひとつ、僕の鼻をくすぐる、清涼でいて、その奥に眠る彼由来の男らしい匂い。堪えがたい魅惑に首筋へ鼻をすり寄せる。浮き出た血管を食むと、隣の喉仏が上下した。
「……っ、ハー……、エメトセルク?」
 僕の肩を押しのけようとしていた彼の手が、腰にまわされて、それどころかぐっと引き寄せられた。
「少し黙っていろ」
 パチン、と音が鳴った。
 僕の身を守っていた術式が解除され、頭のてっぺんあたりから何かが降りてくるような感覚があった。それはぬるりと僕の体表を流れ落ち、ハーデスの姿を消した。
 だが、僕の腰をしっかりと抱く彼の腕も、唇に伝わる血管の脈動も、確かにまだそこに在る。幻影魔法によって僕たちの姿が隠されたのだ。とはいえ互いの姿が見えなくなったのは一瞬のことで、“そこに在る”と認識している僕たちにはすぐに効果が失くなった。
「エメ、……」
 シィー……、とハーデスは人差し指をその唇に押し当てた。それだけで例えようもないほど色気のある仕草になるのだからずるい男だ。僕にできることといったら、彼の望むままに身をまかせることくらいだった。
 露わになった彼の瞳は、まっすぐに僕を映しながら近づいて……堪えられずに目を瞑ったその先で、鼻先が擦れあい、吐息が重なった。
「っ……ふ」
 乾いたままの唇に、掠めるように喰まれる。
 彼の口づけは、余韻たっぷりに焦らすようで、くすぐったくてもどかしい触れ合いに、全身がぞくっと震えるほどだった。
 目を開けて懇願すれば、彼の睫毛に縁取られた伏し目が、笑うように細められていて、僕は今、彼の、ハーデスの支配下にあるのだと認める他なかった。
 欲しい、彼のエーテルが、欲しくてたまらない。
 砂漠に置き去りにされたみたいな喉の渇きに気が狂いそうだ。
 それなのに、彼の唇が離れていく。
 愉快げに歪められた口元が、そんなに欲しいのか、と動いた。
 僕は、“ハーデス”、と、口の動きだけで懇願した。
 彼のまなざしは少しだけ見開かれて、どこか真剣な色を湛えた。そして、先ほどまでとは打って変わった性急さで貪られた。
「……っ、ぅ……ンッ……」
 もぐりこんできたハーデスの舌が、引っ込んでいた僕の舌を突いた。請われるまま差し出せば、吸われて彼の口の中に誘われた。
 先ほど噛まれた箇所からにじむ鉄の味を、彼も感じるだろうに、容赦なく舐めしゃぶられて、ピリピリとした痛みが走る。けれど同じくらいの快感も突き抜けていて、抗議するどころかされるがままでいるしかなかった。
 そして、痛みという感覚さえ麻痺するくらい、存分に味わわれて、僕の舌はようやく解放された。
 ちゅ、……と小さな音を立てて湿った唇が離れてゆく。うっすら目を開ければ、彼と僕の唇の間を糸がつないでいるのが見えて、すっかり忘れていたはずの情欲が首をもたげはじめた。
「は、……ぁ……」
 こんなにも密着しているのだから、わからないはずもない。ああ、そうだ。僕は友であるはずの彼を——どうしようもなく、“ハーデス”が欲しいのだ。彼が僕に口付ける意図がどうであれ、僕のまぎれもない劣情は抑えようがなかった。
 彼は、フ、と小さく笑った。
 僕の腰を抱く腕に力がこめられて、熱い塊がぐりぐりと押し付けられた。
 なんだ……君も同じなのか。
「ん……」
 ふたたび唇を塞がれて、咥内を探られる快感に没頭する。
 変な気分だ。彼は、贔屓目を抜きにしても良い男だ。面倒くさがりだが根はまじめで、責任感が強くて、そして——愛情深い人だ。想いを寄せられることも多いだろう。そんな彼のもっとも親しいうちのひとりではある、と、自負してはいるが、こんな風に、僕が、その……対象になるなど。
 もしかすると同じようなことを、僕が、キスしたいなどと言ったときに、彼も感じていたのだろうか?
 ……ほとんどされるがままだった舌を、彼の動きに合わせ絡めて——彼の“モノ”に見立て、舌筋をなぞり、先端をつついたり、唇でシゴいたり、半ば下品に味わってみせると、僕の身体に触れる熱が、ひくっ、と跳ねた。
 当たり前だが、彼のような男でも、制御できない欲望に振り回されることがあるのだな。なんだか感慨深い。
 薄く目を開けると、ハーデスの瞳は閉ざされていて、けれど、僕が見ている気配が伝わったのか、同じようにうっすらと開かれた。互いがまばたきするたびに、睫毛が触れ合ってくすぐったい。ああ、そうか。それで僕が目を開けるとわかってしまうのか。なんだかおかしくなって、唇の隙間から小さく笑いが溢れた。
「……っ……⁉︎」
 エーテルが、流し込まれてくる。
 一瞬にして頭の中にぼうっと靄がかかった。身体から力が抜けて、ほとんど彼に体重を預ける形になる。少しの隙間もないほど深く口づけられて、とろとろと注がれる彼の唾液さえ、甘く感じた。
「ん、っく……」
 彼の舌を通じて送りこまれるエーテルを咀嚼するように、咥内にたまる唾液を何度ものみこんだ。
 魔力変換術式を、構築しなければ……だ、めだ。集中できるわけがない……内側から、彼の、ハーデスの、魔力に、犯されていく。
 魔力が、神経が、たましいが、僕のものではなくなる。遺伝子に刻みつけられる。下肢になにか伝う感触がして、僕は、これが真の快楽なのだと思い知らされた。
 こつ、こつ、と、遠くから足音が近づいてくる——。
 最後の気力で、彼の肩に爪を立てたが、ハーデスは意地でも僕を離すつもりはないらしかった……神経支配がおかしくなり、手足が意思に反してびくついて、あ、あ、あ、もう、……許容量が、あふ、れ……!
「っ……、ぅ……、…………ッ!」
 僕の後頭部をささえる彼の指先が、耳の後ろあたりをなぞっていた。撫で、られているのだろうか。彼の腕の中で何度もびくつきながら、欲を吐き出している間、ずっとそうされていた。
 やっと落ち着いた時、もう足音は聞こえなくなっていた。
 ……いや、違う。通り過ぎたのではなく、まだ、そこに……。
「……………………うーん……?」
 そ、それは、よりにもよって、ヒュトロダエウスだった。
 彼は姿が消えているはずの僕たちのほうを、訝しげにまっすぐ見ていて、何かに集中するように目を閉じると、「ああ」と声をあげた。
「なるほど。うん、視なかったことにするよ。……“今は”、ね」
 まさしく死の宣告だった。カウントダウンを幻視するほどに。
 ヒュトロダエウスが立ち去って、おそるおそる振り向くと、これ以上ないほど眉間にシワを寄せたハーデスと目があった。
「きょ、共犯……だろう? あっ、やめっ」
 本日二度目の簀巻きだった。
 ぎっちぎちに締め上げられた、ハーデス作のエーテルロープは渾身の出来と言わざるを得ない。そもそも無理にエーテルをそそぎこまれて、うまく魔力を操れない状態なのだから、ここまでしなくとも僕には逃れようがないのだが! 身体を綺麗にしてくれたことだけが温情だろうか。
 そして、仕上げとばかりに創造されたのは、これだ。
『僕はエーテル供給機です。ご自由にお使いください。』
 ……と書かれた紙を貼り付けられたのだ。
 おかげでしばらく、具合が悪くなるくらい魔力を吸われまくったのは言うまでもない。もう二度としません。ごめんなさい。そんな僕の様子を見世物として愉しんだ友人二名はヒトの皮を被った獣に違いない。
 なお——、そのうちの一名であるヒュトロダエウスに、口止め料、というか、僕とハーデスの一件について、からかいの種にして頂かないために支払った代償は……新作エーテルの味見役だ。一口飲んだハーデスの反応が傑作だった。実際の味については……ノーコメントで。

「口直しだ、口直し」
 あの続きをする口実としては良かったのかも……しれない。


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