Q.E.D.

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 アーモロート市民の多くは弁論好きである。
 実際に論じるのが好きな者、他人の弁舌を聴くのが好きな者、日常生活の瑣末なことから、星の管理に関わることまで、それぞれ思い思いに、今日も人民弁論館はにぎわいを見せていた。
「あの人とエメトセルクが部屋を借りてからもう三日も経っている。いったい中で何が起きているか論じようじゃないか」
 ヒュトロダエウスが、わざわざホールにて知人のひとりに聞こえよがしに言ってみせた。まわりの者の耳が一挙にこちらへ集中する気配を感じて、フフ、と小さく笑う。
 三日も経っているというのは言葉の綾で、実際彼らは部屋に閉じこもりきりというわけではない。ただ、各々のやるべきことを済ませた後の自由な時間を、ここ三日間はすべて個室での弁論に費やしているというわけだ。結論を出さねばならぬ難題に取り組んでいるのか、脱線しすぎて落としどころを見失っているのか、はたまた本当に弁論ではない何かに興じているのか。
 十四人委員会は市民の代表である。その座に連なるふたりが熱心に弁論を交わしているのだ、市民の関心を集めないわけがない。
 ……むろん、個室で行われているのは白熱した議論に他ならなかった。
 白熱しすぎて今にも体内含有エーテルが爆発しそうなほどではあったが。


「やはり、君とはどうあってもわかりあえないらしい!」
 男は憤然とした様子で吐き捨てた。
 対して、エメトセルクも「それはこちらの台詞だ」と、片手をひらひら振って拒絶の意を示す。
 あまりにもことごとく思想が合わないので、その友情にすら亀裂が入りかねないのではないかと、だれかがその場にいたのなら、危惧しただろう。
 基本的には、どんなに意見が相違しようと、それはそれ、これはこれ。相手の人格まで疑いはしないし、外見という個性こそ押し殺して生きていても、精神性の個性はもっとも尊ばれる価値観で生きている、それが善きアーモロート市民というものだ。
 だがそれを踏まえても、かの男とエメトセルクの間に、決して超えられない壁が創造されたように感じるのは否めなかった。この長い長い討論を終えたとき、それ以前とは、関係性そのものが変わってしまって、もう二度と戻ることのできないような。
 そのことに思い至って、男は急激な不安におそわれた。
 まさか、もう弁論を交わすことも、それどころか必要以上の会話をすることもなくなってしまうのではないか? 共同で新たなイデアを創ることも、擬似戦闘訓練も、ほろ苦い思い出となってしまうのではないか?
「……エメトセルク…………」
 口にしてしまった言葉は、もう二度と取り消すことができないのを承知の上で、男はおそるおそるエメトセルクの顔色をうかがった。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「あー……その……」
 エメトセルクの声音は心なしかいつもよりぶっきらぼうだった。あるいはこちらのほうが、一時の感情に身をまかせてしまった罪悪感から、そのように聴こえただけやもしれない。
 いずれにせよ言葉を詰まらせるのに足る緊張が走ったことには変わりなく、仮面越しといえど顔を向き合わせてはいられずにうつむいた。何かを言おうと、唇を開いては、また閉じる。
 だが、そんな友をエメトセルクは、言いたいことがあるならはっきり言えなどと急かすようなこともなく、言葉が見つかるまで辛抱強く待っていた。親友のかわらぬ紳士的な気遣いに、緊張はやがてやわらいで、男はか細い声で一言つぶやいた。
「すまない、ハーデス……」
 ハーデス。当代のエメトセルクの座につきし者の真名だった。滅多に呼ばれぬ名は、エメトセルクという座の誉れとその重みを示してもいた。同じ十四人委員会の一員である男も、同じ立場であるからこそ、ハーデスをエメトセルクと座の名で呼んでいた。それが個人的な場においても。だが、今は昔の、何も背負っていない子供の頃のように、懐かしさと親しみの響きで、親友の名を呼んだ。
「どうあっても分かり合えないなんて、言い過ぎた。許してほしい。僕は君を失いたくない」
「待て、何故そうなる?」
 ぽかん、と男の口が開いた。
「でも、僕は君を拒絶して」とごにょごにょ呟くと、ハーデスは呆れたように肩をすくめ、大きなため息を吐いた。
「私はただ、この件に関しては分かり合えそうもないということに同意しただけだ。それとも、お前は一瞬でも——本気で私を拒絶したのか?」
「そんなこと! 君のいない人生をおくるなら、魂が引き裂かれたほうがまだマシだ」
 からかってやるつもりが、思わぬ言葉が飛び出してきたことで、ハーデスは少々面食らった。
「おうおう、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなことが言えるものだ。まるで熱烈なプロポーズのようだ」
 “最強の戦士”と呼ばれる男にそうまで言われるのは、光栄なことだと受け取っておくがな。
 そう続けると、男はいまさらながら自分の発した言葉の恥ずかしさを思い知ったのか、すでに仮面で隠れている顔をさらに片手で覆った。
「そんなつもりは……いや、しかし、嘘は言っていない。ただ、僕は君を本当に大切な……かけがえのない親友だと思っている。そんな君と決してわかりあえないことがひとつでもあるのは、とても悲しいとも思う」
「仕方のないことだ。多様性もまた、尊重すべきもの。全員が同じ思考、同じ価値観を持つなど、周りに自分しかいないようなものだ。そんな世界はつまらないだろう?」
「ああ……君の言う通りだ、ハーデス。けれど、君が僕で、僕が君であったなら、どんな風に思うのだろう、どんな風に世界を感じるのだろうと考えることもあるよ。もちろんそれも、ここに君と僕という存在があるからこそだけど」
「……なるほど。“理想”に至るまでの過程も含め知ることができれば、同じ存在にならずとも共有できるという考え方か」
「もっとも……ただの思考実験でしかないけどね」
 みずからはじめたはずの愛すべき弁論の脱線を、男はばっさり切り捨てた。
「そうとも限らないんじゃないか? 我々人類も含め、万物はエーテルによって構成されている。記憶も、経験も、己のエーテルに刻まれた要素のひとつでしかない」
 つまり……、と続きを口にしかけたハーデスは、その方法が名状しがたい感情を誘発させることに気づいた。そして同時に、論議を持ちかけてきた男が、なにゆえ話の腰を折ろうとしたのかに思い至った。
「あー……、その、なんだ。まあ、あくまで理論上の話だ」
「……その話の逸らし方は、僕がいたたまれなくなるよ。理論上の話だというなら、もう最後まで言い切ってくれてよかったのに。これでは僕たち、まるで“意識のしすぎ”じゃないか?」
「はあ……まったくだな。この場にヒュトロダエウスがいないことは幸運だった」
 はは、と男が笑うと、ハーデスもつられて口角をあげた。やがて愉快な気持ちが連鎖して、ふたりは大いに笑った。
 なお——ふたりの弁論の過程と結末について、ヒュトロダエウスがすでに衆目を集めながら面白おかしく捏造していることを、ふたりはまだ知らない。
「——でも、試しにやってみたい、という気持ちは確かにあるんだ。知的好奇心、というのは君に失礼かもしれないけれども」
「別に、私は構わないが」
 今度は男が面食らう番だった。
 ニヤ、と意地悪い笑みをうかべて、ハーデスは続けた。
「探究の心はつねに推奨されている。懸念点はヒュトロダエウスだが、まあ、知られたところでからかわれるだけだ。お前がどーーしてもというのなら、付き合ってやっても良いぞ?」
 ハーデスの言葉を聞いて、ごく、と喉が鳴った。
 未知の現象、経験、知識は、いくら欲しいと願おうが、幸運にめぐまれない限り、得難きものである。だからこそ、ほとんどのアーモロート市民はそれを欲して創造魔法を行使し、他者のイデアを求めつづける。
 ましてや知恵と力に優る十四人委員会の一員にとって、目の前に差し出された魅力的な提案は、到底あらがえるものではなかった。あるいは、それは男とハーデス双方が願っていて、必然的にその形に収束したのやもしれなかった。
 どこか熱に浮かされたように顔を見合わせたふたりは、人民弁論館を後にして——広間の方で人だかりと、その中心にいたヒュトロダエウスに、沈黙と意味深な笑みを向けられたが、未知への好奇心の前に歩みはとどまることなく——ごく自然にたどりついたのは、ハーデスの私室だった。
「久方ぶりに君の部屋へお邪魔するが、——あまり変わっていないなあ」
 そんなことを言いながら、男は勝手知ったる様子で、 ひとりがけの椅子に腰かけた。
「シンプルながら、ゆったりとした奥行きのある座面と、身が沈み込むほどの、ふかふかクッション」——椅子の背を撫でながら微笑み、続ける。
「この素晴らしいイデアは僕もお気に入りだ。はじめてこの部屋へおとずれたあと、すぐに創造物管理局へ行って、同じものを創造したからね」
「ああ……言われてみれば、あったような気もしなくもない。だが、お前の部屋はそもそも創造物が多すぎる」
「はは、僕はごちゃごちゃしているほうが想像力が働くんだ。——だから少し、君の部屋にいると、どうしていいかわからない気持ちになる」
 シンプルで、上品な部屋。ハーデスの部屋を訪れた人は、皆そんな印象を抱くだろう。彼自身の創造するイデアのように、無駄がなく、それでいて美しく、機能美に満ちた室内だ。
 居心地が悪い、というには少し違う。緊張はしている。けれどここに居たい。それは他ならぬハーデスの私室だからだ。彼の個性をもっともよく感じる空間だからだ。もっと知りたいと思った。だからこそここへ訪れた。
 冷静さを保つために、とりとめない思考で自分の感情を整理していると、陰が覆った。見上げると、ハーデスは自らの仮面に手をかけて、ゆっくりと外した。その眼差しの美しさに見惚れた男の仮面も、同じ手によって取り外された。
「らしくないな」
 愉快そうな声とともに、頭上で笑いを押し殺す気配がした。男は、露わになった顔を手で覆い、「顔を見られるのは慣れてない」と言った。しかし、そんなことは誰だって同じだ。下手くそな言い訳を、ハーデスがそれ以上追及することはなかった。かわりに、顎をつかまれて、無理やり視線を合わせられる。
「やめておくか?」
「ここまできて……そんな選択肢はありえない」
(ああ、なんということだ、これではまるで、何だか——)
 覚悟を決めて、ハーデスの腕をつかむ。
(僕のこの煮え切らない態度が、事態を、感情をややこしくさせるのだ)
 顎を持ち上げていた手に指を絡めて、立ち上がる。
「寝台を借りても?」
 許しを得る前に、男はハーデスを柔らかな概念に押し倒した。
「はあ……まったく。好きにしろ」
 直接的な言葉は交わさないまま、男とハーデスは両指を絡め合った。
 理論はたがいに百も承知の上だ。それにともなう刺激と肉体反応も、ある程度は予測できる。だからこそ、なんとなく、言葉にはできなかった。
「では……僕からやるから、君は——言わなくてもわかるか。……いくよ」
 目を閉じることで了承の意を伝えてきたハーデスを見下ろしながら、右手に意識を集中させる。
 己の身に循環するエーテルを想像し、その奔流が指先を通じて、ハーデスの神経に流れこみ、ひとつになる。
 ビクっ、と、密着した向こうの身体が痙攣した。
「っは、少し、抑えろ……」
 いきおいが強すぎたらしい。
 エーテルの流れを加減しようとしたが、左手から滲み込むように、ハーデスのエーテルが経絡に侵入してくるのを感じて、身体がこわばった。
 絡め合った指をぎゅうと握りしめて、むずむずとした不快と快感の狭間にある感覚に耐える。
「ンッ……‼︎ おいっ……!」
「ごめ、止まらな……っ」
 傷ついた地脈のようにエーテルが溢れ出して止まらない。
 つなぎ合わせた経絡を通じて、ハーデスにそのすべてが注ぎ込まれていく。そして奔流に押し出されるようにして、ハーデス自身のエーテルが、同じくらいの勢力でもって男の神経を侵していった。これはほとんどハーデスの力技だった。異物を受け入れることを拒絶する本能を無理やりこじあけて、自分という存在を刻みつけ、もともとひとつであったかのように遺伝子を改竄していく。
「循環が、……うまく、……あっ、う、ハー、デス……!」
「落ち着け……! 私がお前に合わせる、っ、魔力を乱すなっ」
 エーテル酔いに似た感覚が身体を支配する。視界がゆらぎ、あざやかな色彩にそまる。呼吸を維持することだけが男はハーデスの上に倒れこんだ——ところが、気づけば、男は“自分自身”を見下ろしていた。顔を真っ赤に染めて、息も絶え絶えで、まるで変なことをしている気分になる。
 これは、ハーデスの視界だ。
 循環するエーテルの中で、彼の目を通し、自分を幻視している。
 そうと自覚すれば、どうにかこうにか自分のエーテルを手繰りよせることもできた。体内を巡るふたつの魔力を丁寧に解きほぐし、彼と自分との境界線をはっきりと認識すると、世界がひっくりかえるように視界が反転して、ハーデスを見上げた。
 汗だくになった首筋が、エーテルの残滓できらきらと艶めいていた。
 気だるそうに髪をかきあげようとして、支柱になっていた片腕がぐらついたのを男が支え、隣に横たわらせる。こちらを見遣った、熱っぽい眼差しまでまるで同じだった。
「はぁ、ああ……ハーデス、僕は今、君の目を通して、世界を見た」
 他人の魔力を受け入れるには、相応の“隙間”が必要だ。許容量を超えるエーテルは、当然だが吸収することはできないし、他人のエーテルを一定以上——具体的には二割を超える量を——摂取すると危険をともなう。吸収したエーテルを自分のエーテルに変換しきらないうちに、他人のエーテルに染まり続ければ、エーテル経絡やあるいは自我にまで影響をおよぼす可能性があるからだ。
 それは逆説的に、他人のエーテルを得ることで、記憶や経験、本人さえもあずかり知らぬ、深層意識までをも共有できることが、理論上あり得るということでもあった。
「私も、お前の目で視ていた。だが、ほんの一瞬だけだ。完全にエーテルが循環したのがその時だけだった……ということだろう」
「思ったより危険で、難しいな、これは……」
 溶け合うようにつながっていた両手を気にするふりをして、ハーデスをうかがうと、まっすぐにこちらを見ていた視線とばっちり噛み合ってしまい、小さく息を呑む。
「……今度こそ、やめておくか?」
 その言葉は、挑発的な声音ではなく、どちらかといえばむしろ、心配するような、そして自分自身も迷うような響きを持っていた。
 ほんのわずかな瞬間といえども自我を見失いかけたのは事実で、この試みに危険がないとは言えない。これより先は、相手と己との境界を極限まで取りはらい、魂というエーテルの核を触れ合わせ、存在そのものを共有する行為となるのだ。
 実のところ、この理論は、当代ラハブレアが提唱したものを応用している形になる。その内容は、自我を守りながら肉体を捨て、エーテル体となるところからはじまる。“自我”を守る方法については、いまだ完全に確立されているわけではないが、肉体という魂の器が存在しているなら、完全なる一体化はできなくとも、自我を保ちつつ、エーテル核に刻まれた情報を共有することが可能となる……はずだ。
 もちろん、ハーデスもこの理論について知っていたからこそ、この提案を持ちかけてきたのだろう。
 しかし、ふたりの憂慮はもはや、自我を失うか否かではない、他のところに存在していた。
「僕は……今のこの感情を、どうにも言語化することができない。だけど、誤解しないでほしい。僕は未知なるものにつきものの危険を恐れている臆病者ではない。ただ……」
 少しだけ、逡巡して言葉をつなげる。
「恥ずべきことだが、これで、僕の想いを、わかってほしい……」
 エーテルを放出する。言葉にできない複雑な感情を表出させ、“察する”ことを要求する。善き民の代表者として、それは慚愧にたえない行為であった。
 恐れ、不安、それを上回る期待、興奮、熱情、劣情。
「軽蔑されるのは覚悟の上だ。でも、だからこそこの感情を隠したまま続けるわけにはいかない。どうせすべて知られてしまうからね。さあ、無かったことにするも、距離を置くも、君の自由だ、ハー……、デ、ス」
 両の手の指がふたたび繋がって、ハーデスは自虐に沈む友に覆いかぶさった。
 そして、耳元でただひとこと「今度は私からだ」とささやいた。
「あ、っ……う、あ……っ……!」
 ハーデスの魔力が無数の毛細魔力経絡をひとつ残らず犯してゆく。あわてて魔力を放出させれば、それはなんとも滑らかにハーデスの身体へ供給された。その分、すきまが空いた箇所に、彼の魔力がそそぎこまれて、ぞくぞくとした痺れが走った。魔力量だけ膨大な男とちがい、繊細な魔力制御をすずしい顔でこなしてみせるハーデスに、思わず、「手加減してくれ」と懇願してしまったほどだった。あまりにスムーズに流れる循環は、心の準備を待つ間もなく、より魂に近いところまで侵入を許していた。
「ぜひとも数分前を思い出してほしいものだな」
 意地の悪い笑みを浮かべて、ハーデスは言った。
 確かに、加減をしなかったのはこちらの方だ。制御を失った他者の魔力が体内で暴れまわる——想像するだけでもぞっとする。しかし、ハーデスの魔力が容赦なくこの身を侵していくことを思うと、その怖気は堪えがたい熱となって、いっそ自我を手放してしまいたくもなった。
「あ、あああ……っ‼︎」
 自分のものではないエーテルが、もっとも重要な器官へと近づいてくる。ここに在るという概念を揺るがす衝撃に、魂の境界が傷つけられ、侵入してくる。侵入する。己の魔力と、ハーデスの魔力が交差して、今、たがいの魂に確かにふれた。
「ッァ……!」
 それは、まぎれもない、快楽だった。
 脳神経を焼き切りかねないほどの情報伝達に、肉体が悲鳴をあげる。
 涙と、汗と、唾液とを垂れながしながら、ハーデスの、あるいは己の過去を、断片的に幻視する。
 そして目を開けると、そこに映るのは自分であり、ハーデスである男の顔だった。
 今このとき覚えている感情は、いったいどちらのものなのか。どちらのものでもあるのかさえ、わからない。それならば、と、本能に従った。
「んぅ……っ!」
 快感にあえぐ唇をふさいで、貪った。
 神経過敏になった身体での粘膜接触は、電流の走るような刺激をもたらした。触れて、触れられて、肉体の境目すら溶け合うような痺れを、私は夢中になって味わった。素肌を隔てる布地が邪魔で、エーテルとして分解し、この世に生まれ落ちたときの姿になって、頭をかき抱き、脚を絡め合った。
 興奮に満ちた象徴が触れ合って、僕は恥ずかしさから、目をつむった。肉体が精神につられて反応するのは当然のことだ。恥じ入ったのは、当然であるはずのことを、大いに意識してしまったからだ。欲望を抱いてしまったからだ。精神性を高め合う、高尚かつ神聖な儀式を行っている最中だというのに、肉体的快楽を追い、交尾の真似事をしたいなどと、そんな幻覚を妄想したからだ。
 次に目を開けると、共有された精神世界が、まさしくそのような光景を生み出していた。ハーデスの部屋で、彼が普段ねむりにつくイデアの上で、僕は僕となり、私は私となって、肉体的にひとつになっていた。私がそうしたのか、僕がそうしたのか、もはやわからない。ただ、深層意識のひとつが言った。きっと僕が願い、私が叶えたのだと。
「いい、っ、こんなことは、ハーデス、っあ、あ、あ……っ」
「何を言おうと、考えてることは筒抜けだぞ。それくらいわかるだろう?」
 その通りだ。そして、それはハーデス自身にも当てはまる。
 あまりに信じがたいので、すべて自分自身の感情であり、それを共有したハーデスが錯覚を起こしているのだと思ってしまうほどだが、ハーデスとなって己を視たとき、たしかに浅ましいほどの欲望を覚えたのだ。
「だったら、せめて、君になりたい……っ」
 未だエーテルは循環し続けているというのに、視界を入れ替えることができない。ハーデスが創り上げた、空想上の創造世界ともいうべきこの空間は、創造魔法がよりプリミティブに顕現しているといっていい。なにかを創るとき、まずはイデアを確立するところから始めるが、一体化しているだけあって、その時点でふたりの間にイマジネーションが共有され、具現化してしまうといった現象だ。もっとも、現実には、こんなことは起こっていない。起こっていないにもかかわらず、凝り性のハーデスが、無意味に現実世界そっくりの空間を“想像”したものだから、気恥ずかしさは余計に増すばかりだった。
「私はお前が願った通りにしているだけだが?」
「なにをさらっと嘘をついているんだ! 思考は筒抜けだと、さっき自分で……あっ、ちょっ、やめっ……あ!」
 身体の奥を突かれて、背をのけぞらせる。
 実際に行為をしているわけではないので、苦痛はない。この衝撃は、エーテルを用いて脳を刺激し、擬似的に行為を再現しているに過ぎない。などと、論理的に平静を保とうとすれば、ハーデスはたえまなく魔力のピストン運動を繰り返して、思考回路を侵していった。
(純粋な快楽だけを与えられる分、実際に行うよりもはるかに、問題があるんじゃないか?)
 ハーデスが思考した言葉が脳裏をよぎったが、まともに聞いていられるわけはなく、男は意識を手繰りよせるので精一杯だった。
「は、あっ、あ、いやだ、まだ、僕は……!」
 意識を消失すれば、この同調は終わりを迎える。
「っおい、大人しく……!」
 ハーデスの支配に抵抗のきざしがあらわれる。
 恐ろしいほどの魔力が、体内器官で燃えながら溢れ出し、やがて決壊した。
「あ、ああああ……ッ!」
 “想像魔法”は奔流にのみこまれ、砕け散り、真っ白になった世界で、ハーデスの絶叫がほとばしった。
 魔力が逆流し、円環の理がさかさまに入れ替わる。
 気づけば世界は元に戻っていて、気だるさと肉体の不快感を覚えた。下半身はべっとりと濡れていて、まるで夢精でもしたようだった。視界は自分のもので、なるほど、しっかりと制御できれば、感覚の同調もある程度は操れるらしい。もっとも、それは循環を支配している側の特権であって、ハーデスはもはや、魔力の制御はおろか、肉体の操作すらままならないはずだ。
「ああ、これだから、お前に主導権を渡すのは厭だったんだ……」
 顔を半分シーツに埋めたハーデスからくぐもった嘆きが呟かれた。
 たとえば上気した頬をみられたくないだとか、本当は期待している気持ちもあるのだとか、それは精神感応につられた肉体の生理現象であって、決してやましいことを考えているわけではないのだとか、そんな、泡のように膨らんでは弾ける感情と思考が、今となっては手に取るように理解できてしまう。
 そして彼は素直な人間ではないから、この状態を死ぬほど恥ずかしがっている。
「ハーデス……」
 額に唇をよせて、汗で張り付いた前髪を咥え、耳にかけてやると、それがたまらないように体を震わせた。
「この感情は君にも伝わっているのだよなあ」
 ハーデスは何も言わなかった。目を伏せて、呼吸を整えるのに集中しているフリをしていたが、耳まで赤らんだその姿が、心を読まずとも何より顕著に内心を伝えていた。
 あくまでも無視するというのなら仕方ない、と、先ほどハーデス自身がやったように、男は耳元でささやいた。
「とても愛おしいんだ、君のことが」
 にぎり合った指先で、ハーデスの手の甲をやさしく引っ掻いた。
 過敏になった神経は、爪の先が往復するたび、もどかしい、気持ちいい、ぞくぞくする、そんな情感を訴えてくる。飄々としているように見せて、誰よりも堅物な親友が、肉欲に思考を支配されている様は、頭がくらくらするほど興奮を高めた。
「ヤるなら、さっさとヤれっ!」
 耐えきれなかったのだろう、彼にしては情緒のかけらもない言葉で叫ばれて、思わず笑ってしまった。まもなく本物の怒りがわきあがってくるのを感じて、「ごめんよ」とささやいて、なだめるように口付けた。すると存外素直に舌をからめてきたハーデスの内情は、本当にじらされてじらされてたまらなかったのだ。それがわかっていて、いじめてしまったのは、すこし悪いとは思っている。ハーデスは一見そうは見えないものの、とても真面目で紳士的な人間なので、あまりそういう意地悪はせず、願ったことをそのまま叶えてくれる。けれどきっと、思い通りにならないことも、それはそれで、価値があるのだ。
「うつ伏せになって」
 エーテルが完全に混ざりあった今ならば、多少身体が離れても循環を維持することは容易だった。ハーデスは無言をつらぬいているものの、素直に従った。何を言おうが言わまいが、どうせ伝わるのだという諦観が流れてきたが、彼の穏やかな声が聴けないのは少しさびしかった。
「……これでいいか」
「うん。ありがとう、ハーデス」
(本当に、かわいいひとだなあ)と思えば、もう(今すぐに循環を断ち切りたい)などと悪態を吐かれたが、照れ隠しが半分といったところだ。とはいえ、あまりいじめすぎるのも後が怖い。己の性器に手を添えて、ハーデスの内臓への入り口に押し付けた。
「……っ待て、まさかそのままヤる気じゃないだろうな……⁉︎」
「え、だって、そうしてほしいんだろう?」
「そんなわけがあるかっ! ああ、くそっ……私がしたようにしろ、ということだ!」
「大丈夫、わかってる」
 それ以上は有無を言わさず、男は腰を押し込んだ。
 ハーデスは、視界に星が散るような幻視を覚えた。(いつからだ?)快楽に貫かれながらも疑問は生じた。
「支配している側なら、思考内容を隠すこともできと、たった今証明されたところだ」
 いたずらが成功して喜ばしいという想いが伝わりハーデスは憤怒した。
「断りなく私を検証材料にしたな……! 覚えていろ、後で絶対にお前を、っん、っ……!」
「は、ぁ、はぁ、思考を少し隠すことができるだけで、嘘は吐けないんだ。そんなに怒らないでおくれよ、君がしたいこと、してほしいこと、すべて叶えるから」
 この現実世界は創りあげられたものだった。
 おそらくはハーデスの魔法が破られたときにはすでに、世界はこの男の手中にあったのだろう。気づけなかった自分に腹が立ちつつも、限りなく現実に近づけた世界で行う疑似性交は、わずかではあるが苦痛さえ再現されていて、それがいっそうの背徳感と快感をかきたてている事実があった。背後からのしかかられ、両手を上から握られ、幻想上の出来事ではあるものの、女のように性器を咥え込まされ、何度も何度も突かれている。そのたびに神経信号はハーデスに快感を伝え、意思とは関係なく、嬌声が押し出された。
 本物の行為でさえ、この男としたいのか? ハーデスには自分の感情がわからなかった。むしろ、本物の行為と何が違うのか? なぜこんなことをしている?
 ただ、私も僕も、互いのことを知り尽くしたかった、それだけだ。
「くっ、……うっ、……あ、あァッ……!」
 最奥を貫かれ、子種をそそぎこまれる幻覚を植え付けられたとき、ハーデスは、まぎれもない絶頂に達した。
(ああ、こんなことを覚えてしまったら、二度と元には戻れまい……)
「元に戻れないなんて、おかしなことを思うなあ。僕たちの関係はいつだって、互いにとって、かけがえのないものだったじゃないか」
 その言葉を最後に、ハーデスの意識は消失した。


「とても有意義な時間だったよ、ハーデス」
 朝陽を浴びて、うーんと伸びをしながら、男は実ににこやかに、隣でうずくまる友に向かって言ってみせた。
「……それが、友人を犯した感想か?」
「お互い様だろう?」
 身体や周囲の汚れは清められてはいるものの、寝台の上に大の男がふたり、裸で横たわっている状況は、何とも言いがたいものだった。端的に言えば、あまりにも気まずすぎる。
 ハーデスが視線を合わせられないでいると、男は投げ出された手を取り、その指先に口付けた。思わずチラ見すれば、幸せを噛み締めるような、実にむかつきが立つ表情をしていて、ハーデスのまなざしは再び逸らされた。もう同調は終わっているというのに、何やらすべて見透かされているような居心地の悪さだけが残っている。
「身体は何ともないかい? 魔力経絡に異常は?」
「……異常はない。すこぶる健康だ。しかし精神的には非常に疲れている。できればひとりでゆっくり休みたいのだが」
「……承知したよ、ハーデス」
 突き放すような物言いに返ってきた言葉は、なんとも素直なものだった。声色は平坦で普段通りだが、もう思考が読み取れないことが無性に気になって、男が立ち上がろうとしたとき、ハーデスはその腕を掴んで引き止めた。ようやく真正面から見た友の顔は、おどろきに満ちていて、しかしすぐに「どうしたんだい?」と慈しみの微笑みを浮かべた。そして何故か、ハーデスは抱きしめられていた。ざわめいていた心が穏やかに凪いでいくのを感じて、そのとき、本当はまだひとりにはなりたくなかったのだと思い知らされた。
「……お前、まだ私の感情が読めるのか……?」
「まさか。けれど、そう思うってことは、僕の行動は正解だったのだね」
「チッ……はあ、もう、厭だ……」
「ああ、今度はわかる! きっと君は、もう二度と魔力同調なんてしたくないと思ってるだろう!」
 ハーデスは抱きしめられた肩越しに「……それは違う」と呟いた。「え、」と思考当てクイズを盛大に外した男の身体を引き剥がし、パチンと指を鳴らす。
 一糸まとわぬ身体だった両者にローブと仮面が創造された。
「あ、待って、違うなら何を想ったんだい!?」
「……いちいち説明させる気か? 知らなくていいこともある」
 フードの陰と仮面に隠れてしまった表情はもはや窺い知れない。完全ではないが、魂まで触れ合って、一心同体となっていたのに。本能のまま抱き寄せていた存在が、腕の中から離れていくのは、まるで生まれながらの半身が引き裂かれるように苦しかった。
 けれど、それはきっとハーデスも同じことなのだろう。さっさと置いていかれると思った男の目の前に、手が差し伸べられて、「やっぱり君はとても紳士的なひとだ」と素直な評価を述べると、「お前はもう少し情緒というものを覚えろ」と素直じゃない軽口が返ってきた。
 そんな一喜一憂も、別個の存在でなければ味わえないと思えば、僕ではない私、私ではない僕が、よりいっそう愛おしく感じたのだった。


「なるほど。それでキミたちの魂の色は、混ざり合って似たような色になっているというわけだ」
 ヒュトロダエウスの目から逃れることはできない。
 事象の本質を見抜く力に長けた彼は、偽装魔力をこともなげに見破って、それはもう生き生きとした様子で「いったいどんな面白いことをしてきたんだい?」とたずねてきた。ハーデスなどヒュトロダエウスが近づいてきた瞬間にすべてを察して「ああ厭だ……」と天を仰いだほどに、その足取りは軽やかだった。
「お互いの魔力を循環させて……へえ……」
 その結果どういう現象が発生するのかも、ヒュトロダエウスには即座に理解できたはずだ。魂の色はエーテルの新陳代謝によって戻っていくだろうが、ヒュトロダエウスの隠す気もなくにやけている口元は、今後数年——いや数十年——もしかすると数百年は——この出来事でからかってくること請け合いだ。
「ワタシもキミと試してみたいな」
 何が起こるかを理解しているはずなのに、こんなことを口にしてくるところがまさにそれだ。
 明らかに冗談ではあるが、肩を組まれて「エメトセルクに怒られるかな?」などと囁かれると、冗談もどこまで行くかわからない。ヒュトロダエウスはある意味でもっとも危険な男なのだ。
「どう思う?」
「……なぜ私に聞く?」
 ハーデスはしらを切った。不利な弁論はしない主義だ。いかにもやもやした感情が湧いて出てきても、表に出した方が負けであり、傍目に明らかだとしても極力それは隠すべきものだ。そもそも、本気でヒュトロダエウスが彼の、彼がヒュトロダエウスの魂に触れたいというのなら、止める気はないし、その権利もない。それは誰が相手であっても同じことだった。
「つまらないなあ」とヒュトロダエウスは男から離れた。
「本当に怒らせたら怖いから、お邪魔虫はそろそろお暇するよ。ああ、そういえば、最後に聞きたいんだけど——」
「ろくでもないことじゃなければ答えてやろう」
 やはり辛辣さは隠せない声音でハーデスが遮った。
 ヒュトロダエウスはやれやれと肩をすくめて「ろくでもないって一体なんのことかな」などとしらばっくれながら、「素朴な疑問なんだけど」と続けた。
「結局のところキミたちは、いったい何を弁論していたんだい?」
「ああ。お昼寝にふさわしい場所について。彼は木の上と言うんだが、僕はどう考えても幹にもたれて眠るほうが良いと思ってね」
 ヒュトロダエウスは、それは滅多にないことだったが、絶句した。
「……それで三日間も?」
「昼寝は至上の時間だ。それをどう過ごすのかを議題とするなら当然だろう?」
 ハーデスは大真面目にうなずいた。今度はヒュトロダエウスが天を仰ぐ番だった。
(ああなんてばかばかしいんだろう……事実は小説よりも奇なり、だ)
 とはいえ、人生における物事の比重は人それぞれだ。お昼寝の時間をそれほどまでに大切にしている。それだけの話なのだ。
「うーん、ワタシは、ベンチでうとうとする派、かな……」
 その一言が、あらたな弁論の火蓋を切ることになろうとは、さしものヒュトロダエウスも予想だにしなかったのだった。


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